日刊スポーツの名物編集委員、寺尾博和が幅広く語るコラム「寺尾で候」を随時お届けします。

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カドさんが死んだ。その日ばかりは日刊スポーツが郵便ポストに届くのを朝方まで待った。前夜からいくらでも報道されてはいたが、現実を受け入れられずにいた。門田博光、死去ー。その先は読めなかった。

昨年11月、村田兆治が亡くなった直後、本人に電話がつながったと思ったら、なにやら奇声のようなものを発し、一瞬でプツリと切れた。季節が和らいだら会えるだろうと、たかをくくっていた自分を責めた。

長い記者生活で感じた最強打者が、門田だった。通算567本塁打(プロ野球史上3位)は立派だが、その生きざまがすさまじかった。恵まれた体でブルンッと振って、遠くへ飛ばす選手はいくらでもいる。

だが右足アキレス鍵断裂から復活し、身長170センチの小さい体での迫力抜群のフルスイング、そのスイングスピードは今まで現場で目の当たりにしてきた打者ではNO・1だ。

後にも先にも、ロッカーが“個室”のプロ野球選手に出会ったのは、たった門田1人だ。監督、コーチも、選手もロッカーは大阪球場の1階だが、この人の部屋だけは2階にあった。

カーペット張りの部屋に置かれた冷蔵庫の中身はビールと炭酸飲料、奥には石造りの風呂があった。駆け出しの頃から出入りを許されたのは、職業は記者なのに、門田のバットケースを毎試合ロッカーからベンチに運んでいたからだ。

なぜ“運び屋”をやったかというと、門田のネタが欲しかったからだ。取材しにくいレベルは野茂、イチローの比ではない。なんとかふところに食い込んで小さな大打者の神髄に触れたかったのだ。

プロ入り当時のバットは940グラムだったが、「小柄だから重いバットでないと飛距離がでない」とアキレス鍵断裂の術後は1キロのバットで振り込んだ。“運び屋”はバットケースの中身をこそっと見て取材メモをとった。

試合前のトス打撃練習では鉛のような重量球を打った。周囲からは変人とささやかれることも知っていた。「おれはコケコッコ(早朝という意味)からバットを振った。時間を忘れて振った。並の選手はできんから、おれは変わりもんと言われるのよ」と。

「そのへんの解説者が『あんなに強く振らなくても軽く振れば打てるのに』と言うだろ。あほか。確かに思い切って振ってるうちは30本は打てん。軽く振ってるように見えるのは何万スイング、何十万スイング振ってるから、そう見えるんよ。そこを超越せんと軽く打ってるようには見えんのよ」

88年は40歳シーズンで本塁打、打点王のタイトルを手中にし、チームは5位に沈んだのに、門田自身はMVPに輝いた。44本塁打は40歳の世界記録。「昭和」を生きたサラリーマンから喝采を浴びた中年の星だった。

貧乏球団の南海ホークスが、裕福なダイエーに身売りすることが決まった年で、不惑男の背中が哀愁を誘った。夜が明けて、南海で最後まで専属だった打撃投手と電話がつながった。

「お前からは掛かってくると思っとったよ…」

門田の“恋人”は「今の選手にはわからんやろうが、不器用で、野球に命かけたような人だったからな」と切り出すのだった。(つづく、敬称略)

【寺尾博和編集委員】