誰の目にも明らかな直球の球威。誰もが気になる「空白の一日」の心境と、入団後の人間関係…江川卓の神話性は巨人に入っても色あせず、一層、際立っていきます。

身構えず遠慮せず、懐に飛び込んでいった1人の担当記者。何十年も関係を保って深め、軽妙なタッチで深層に潜っていきます。

作新学院時代に続く「追憶 江川卓~巨人編」を全10回で送ります。(敬称略)

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江川卓―。「昭和の怪物」と呼ばれた元巨人のエースである。対戦した打者なら、誰しも「歴代NO・1」と口をそろえる。手元で激しく「浮き上がる」規格外のストレートに、バットが何度も何度も空を切った。プロ入団に際し、非凡さゆえに「空白の一日」がもたらす悲劇に巻き込まれたが、その存在は日本中を強烈にひき付けた。巨人での9年間に投じられた全2万9001球に込められたドラマを追った。

同い年をいいことに、かれこれ30年以上、その姿を追いかけて来た。いっぱしの〝江川ウオッチャー〟気取りでいる。そんな私だから、人から「江川さんって、どんな人?」と、よく聞かれる。

知り合う前は、決して素性を明かさない、生意気な堅物に見えた。

甲子園で、神宮で、ファンを魅了した不同不二の剛球は別にして、例のドラフトによる「激動」をくぐり抜けたくらいだから、取材も一筋縄ではいかないだろうと身構えたものだった。

ところが、話してみると印象は一変した。気さくな、気配りの人。機知に富み、機転も利いた。むろん世間からのバッシングを受け、本来の感情の発露を自制する面もあっただろうが、俗にいう「嫌われた怪物」の顔は、どこにもなかった。

「空白の一日」を突いた巨人入り。容赦ない中傷を浴びた。その頃のことを、10年ほど前の取材で江川は、こう話している。

「こちら側は波風を立てないように静かにしているのが当たり前で、世の中は一斉にたたくのが流れだった」

その言葉を実感する出来事は、皮肉にも、巨人内部でも見受けられた。

1979年(昭54)4月、シーズン開幕直前。巨人入りした江川だが、スタートは2軍だった。球団が、一連の騒動により球界と世間に混乱を招いたことをわび、江川には5月末まで現役登録できない、2カ月間の「自粛」が科されていた。

そんな折、東京・田園調布にあった巨人軍多摩川グラウンドで、監督の長嶋茂雄ら首脳、全選手との「初顔合わせ」があった。

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▼全10回連載 全文は日刊スポーツ・プレミアムに掲載しています▼

〈1〉あれだけ騒がれて9勝「来年ダメなら辞めよう」

〈2〉AI分析で現代によみがえった剛球 極上の158キロ

〈3〉根強い副作用…41年たっても悔しい沢村賞選考委

〈4〉7戦連続弾かかるバースへの敬遠指示を拒否! 結果は…

〈5〉変化球に命名コシヒカリ、マスクメロン 松茸は…失敗

〈6〉消えぬ阪神との因縁…「永遠のライバル」掛布との不文律

〈7〉「死ぬまでの負い目」…小林繁と28年後の和解

〈8〉佐々木朗希へ 演技派のススメ

〈9〉「ニシがいなかったら、俺は…」真のライバルで球友

〈10〉「生まれてから死ぬまで『選択』の連続」