秋季キャンプで伸び盛りだった小笠原にあいさつしようと千葉・鴨川の室内練習場で待っていた。10年以上前、日本ハム担当となった98年のことだ。主力が出てきて、若手も練習を終えた。だが、小笠原の姿だけが見えない。「もう帰ってしまったのかな」と思っていた時、姿を現した。辺りが真っ暗になっていく中、名刺を受け取ってくれたことを覚えている。

 それ以降「最後に帰る選手」というイメージが残った。練習でも、試合が終わった後でも球場にずっととどまっている。トレーニングや体のケアを遅くまで残って行い、絶対に欠かさないのだ。ようやく出てくると「何も派手なことは言えないよ」と話しながらも、優しい笑顔を見せる。チームの担当記者として、小笠原が帰宅の車に乗り込むのを最後に見届けるのが、一日の仕事の締めくくりとなった。

 日本ハムでは最初、送りバントとは無縁の「強打の2番打者」として売り出した。当時、球団関係者と、ふと「もっと小笠原を売り出したいですね」と雑談になったことがあった。

 その時、単純ではあるが名前つながりで小笠原諸島とイベントなどをできないか、という話になった。そして、小笠原諸島の観光親善大使にという流れに。トントン拍子に進み、小笠原本人も球団や島のPRになればと、すぐに快諾した。力になれることがあればすぐに行動する、当時からそういう姿勢が見えていた。

 大記録を達成したが、当時から口癖は「少しずつ、1本ずつ」。おごることなく、今後も1本ずつ着実にヒットを積み重ねることだろう。【栗原弘明】