横浜打撃投手の石田大也(いしだ・ともや)さん(本名・石田文樹=いしだ・ふみき)が15日、午前1時40分、直腸がんのため横浜市内の病院で亡くなった。41歳だった。取手二高(茨城)時代、春夏合わせて甲子園に3度出場。84年夏は決勝で桑田真澄(元パイレーツ)、清原和博(オリックス)の「KKコンビ」を擁するPL学園を破り、日本一に輝いた。プロ6年間では通算1勝に終わったが、94年に引退後は打撃投手に転向し、裏方としてチームを支えた。あまりにも早すぎる死に、チームは悲しみに包まれた。

 もう1度ユニホームを着て、投げたい。石田さんの望みはかなわなかった。この日、午前1時40分、入院していた横浜市内の病院で息を引き取った。

 2月の沖縄・宜野湾キャンプでは、いつもと変わらぬ元気な姿を見せていた。だが、3月のオープン戦期間中、体調がすぐれず検査を受け、直腸ガンが判明した。4月中旬にチームを離れ、直腸の摘出手術を受けたが、がんが転移していた。

 強い意志で病魔に立ち向かった。病床で、弱音を吐くことはなかったという。直腸を摘出後、週に1度の抗がん剤治療を続けながら、現場復帰の思いを捨てなかった。横浜の試合はテレビ観戦し、常にチームのことを気にかけていた。約1カ月前に見舞った親しい球団関係者には「2、3カ月リハビリして、今年の秋のキャンプには投げるよ」と話したという。

 80年代の甲子園ヒーローだった。木内幸男監督(現常総学院監督)率いる取手二ではエースとして活躍。83年春、84年春、夏と甲子園出場を果たした。全国の高校野球ファンに鮮烈な印象を残したのは、84年夏。決勝に進出し、桑田、清原(当時2年生)を擁するPL学園を延長10回の激闘の末に下して、茨城に初めて優勝旗を持ち帰った。抜群の制球力が武器だった。当時、全国の野球少年にとって、あこがれの存在だった。

 卒業後は早大に進学するも、1年の途中で退部し、大学も中退。社会人野球の日本石油(現新日石ENEOS)を経て、88年ドラフト5位で大洋に入団した。6年間の現役生活では通算25試合で1勝0敗だったが、94年に引退後は打撃投手に転向した。制球の良さは変わらず、主力相手に投げることが多かった。

 プロ意識の高さには、定評があった。伊林打撃投手は「肩が痛くても、そぶりを見せなかった。痛み止めを飲みながら投げていた。責任感の強い人だった」と話し、東ブルペン捕手は「ハートの強い人だった。『言ってくれれば、いくらでも投げるよ』と話していたのを思い出す」としみじみ振り返った。94年オフ、戦力外通告を受けた際、親しい球団関係者に他球団でプレーしたい意思を伝えたという。それでも、気持ちを切り替え、大洋・横浜一筋20年。チームを陰から支えてきた。

 この日の広島戦(横浜)は半旗掲揚で行われ、試合前には選手、観客による黙とうがささげられた。横浜の選手は喪章を付けてプレーした。同期入団の石井琢は、試合前、石田さんの背番号「88」を付けてアップした。「もう1回、ユニホームを着たいと言ってくれていたので」と言葉を詰まらせた。石田さんの無念は、誰もが痛いほど感じていた。