プロ野球の阪神、大毎(現ロッテ)で活躍し、東映(現日本ハム)で監督を務めた田宮謙次郎(たみや・けんじろう)氏が5日午前10時42分、脳内出血のため茨城県筑西市の病院で死去した。82歳だった。

 田宮氏は49年に投手として阪神に入団し、1年目に11勝を挙げたが、肩痛で52年から野手に転向。58年に首位打者を獲得し、巨人長嶋茂雄の新人3冠王を阻止した。59年に大毎に移籍すると、山内一弘、榎本喜八らと脅威の「ミサイル打線」を形成し、60年のリーグ優勝に貢献。プロ15年間で打率3割以上を7度マークした。

 通算成績は1488試合出場、打率2割9分7厘、106本塁打、597打点。外野手でベストナインに5度選ばれた。投手時代の50年に国鉄(現ヤクルト)戦で9回2死までパーフェクトを続けながら最後に安打を許し、完全試合1号を逃した。引退後は東映-日拓(現日本ハム)の監督を務め、94年から2年間は台湾プロ野球でも監督として指揮を執った。

 84年から17年間、阪神のOB会長を務めた。厳しくも温かい人柄で「名物会長」として慕われていた。歯に衣(きぬ)着せぬ言動がトレードマーク。野村監督時代には、真っ向から自らの考えを指揮官にぶつけることがあった。同郷の井川に対してはエースに成長後も厳しい言葉で飛躍を促した。

 02年に野球殿堂入りを果たしたときは下館市議を務めており、「選挙じゃないけれど、最近は今年こそ、今年こそと思っていた。待ち遠しかった」とあいさつして周囲を笑わせた。プロ野球を愛し続けた名選手が、旅立った。

 [2010年5月6日8時42分

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