球界の「親分」が逝った。元日本ハム監督の大沢啓二氏が7日午前7時25分、胆のうがんのため、都内の病院で息を引き取った。78歳だった。昨年10月に発覚も、すでに末期に近い状態だったため、手術をせずに抗がん剤などで治療を続けていた。9月23日に体調を崩して入院。先週、容体が悪化し、そのまま帰らぬ人となった。強打、堅守の外野手として、56年に立大から南海に入団。65年に現役を引退し、日本ハム監督として81年にリーグ優勝を果たした。現場から離れたあとは、TBS系の情報番組「サンデーモーニング」にレギュラー出演。「喝(かつ)!」「あっぱれ」のフレーズで人気を博した。

 親分は最後まで「ボール」を握り続けていた。大沢さんの個人マネジャー、久保文雄氏(48)によれば、「病院のベッドの枕元に硬球をずっと置いてました。亡くなる前日もボールを握り締めていました」という。息を引き取った時の顔は「勝ちゲームのあとのような、安らかな表情」(久保氏)だった。

 昨年10月に胆のうがんが見つかった。わかりづらい場所にあったため、発覚した時はすでに末期に近かったという。手術もできずに抗がん剤などで治療を行う一方、周囲には事実を明かさずに、野球評論などの仕事を続けていた。今年夏ごろ「腰が痛い」と訴えることが多くなり、食欲も急激に衰えたという。それでも、久保氏によれば「最後まで親分を通すぞ」と言い、仕事を優先した。元ロッテ、巨人の張本勲氏とのコンビで人気の「サンデーモーニング」の出演は、9月19日が最後となった。

 「親分」のニックネームにたがわない野球人生だった。まっすぐな性格で、高校時代には判定に怒って球審を殴ってしまい、1年間出場停止になった。南海に入団後、立大の2年後輩の杉浦忠氏(故人)、長嶋茂雄氏(巨人終身名誉監督)の面倒をみて、勧誘に一役買った。長嶋氏が巨人入りを決めた際には、たまらず怒鳴りつけたという。コーチ、監督時代に退場7度(史上4位)。最後のユニホーム姿となった94年の日本ハム退団セレモニーの際には、10年ぶりの最下位をわびて、ファンに土下座までした。

 最も光り輝いたのは、最初の日本ハム監督時代だろう。76年から指揮をとり、81年に悲願のリーグ優勝。江夏、柏原、高橋一三、ソレイタといった猛者たちを巧みに使い、球団創設8年目にして初の優勝をもたらした。当時の大社義規オーナー(故人)を胴上げし、男泣きしたのは有名。「大社さんほど野球が好きなオーナーはいない。あの人を胴上げできないようでは男がすたる」。日本シリーズでは江川のいる巨人に完敗したが、日本ハムが北海道に移転するまでの唯一のリーグVだった。

 発言もユニークだった。日本ハムの監督に復帰した93年、当時ロッテの伊良部に完敗した際、「幕張の海岸を泳いでいたらよお、イラブっていう電気クラゲに刺されてな。またの下でなくてよかったけどよ、治療してまた出直しだわな。ワッハッハ」と笑い飛ばした。この年は西武と最後までデッドヒートを演じ、優勝は逃したものの、「親分」は流行語大賞にもなった。

 「人間には、わらじをつくる人、みこしを担ぐ人、みこしに乗る人がいる。誰が一番えらいんじゃなくてよ、それぞれ与えられた役割をまっとうすることが大事なんだ」。大沢さんの口ぐせだった。球界の親分という役割をまっとうし、78年の生涯を閉じた。

 [2010年10月8日8時54分

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