パ・リーグひと筋の熱血闘将、逝く-。阪急、近鉄を強豪チームに育て上げた西本幸雄氏が25日、心不全のため、兵庫・宝塚市内の自宅で死去した。91歳だった。葬儀・告別式は未定。西本氏は60年に大毎監督に就任し、いきなりリーグ優勝。63年から阪急監督として、弱小チームを傑出した情熱と指導力で常勝チームに育て上げ、11年間で5度リーグ制覇に導いた。74年からは、近鉄の指揮。79年に初のリーグ優勝を果たすなど、その手腕はプロ野球の歴史に大きな足跡を残した。20年で8度の日本シリーズに進出したが、1度も勝てなかったことから「悲運の闘将」とも呼ばれた。

 さすがの闘将も体力の衰えには勝てなかった。名将西本氏が逝った。09年春には腎臓など重度の内臓疾患、10年春にも心臓疾患を克服。その後も何度か病魔が忍び寄ったが、持ち前の闘志で振り払った。しかし日々、体力は衰え、9月13日に体操中に転倒し腰の骨を骨折。そのまま入院し、10月3日に退院したが、ここ数日に体調が悪化。親族によると「昨日、今日としんどそうだったが、会話は普通にしていた」という。25日午後8時40分、宝塚市の自宅で帰らぬ人となった。91歳だった。

 和歌山市内で生まれた西本氏は立大に入学し、43年(昭18)には繰り上げ卒業で、戦地中国大陸へ赴いた。戦後、復員して複数の社会人チームに属し、50年、プロ野球がセ・パ分立した年に毎日オリオンズ(現ロッテ、58年大映と合併し大毎に改名)に入団。左投げ左打ち、ポジションは一塁手だったが、入団時はすでに29歳で大きな実績は残せず、55年に引退した。

 その能力が開花したのは指導者としてだ。2軍監督から60年に大毎監督に就任し、いきなりリーグ優勝。だが、日本シリーズで三原監督率いる大洋(現横浜)に4連敗。当時の永田雅一オーナーに電話で作戦批判され、辞任を申し出た。

 名将、西本の名前が全国に知れ渡ったのは阪急監督時代。63年に「灰色のブレーブス」とやゆされた阪急の指揮官となり、猛練習と妥協しない厳しさで、体質を変えていった。就任5年目の67年に初優勝を遂げ、その後、福本豊、山田久志、加藤英司と後の名球会トリオが入団してさらにチーム力はアップし、常勝軍団と言われるようになった。11年間で5回もリーグ優勝したが、日本シリーズでは巨人にことごとく敗れ、73年に退団した。

 それでも、野球への情熱は衰えることはなく74年に「お荷物球団」とまで言われた近鉄バファローズの監督に就任。ここでも、長年染みついた「負け犬根性」を一掃して79、80年とリーグ連覇。評論家時代の84年秋、阪神の新監督に当時の久万オーナーが直接出馬して要請したが、西本氏は体力の衰えを理由に最後は固辞した。

 20年間の監督生活で通算8度の優勝。3球団を率いてのリーグ制覇は故三原脩氏(巨人、西鉄、大洋)と2人だけ。ただ1度も日本一には輝けず「悲運の闘将」と言われた。だが、本人は一貫して言い続けた。「私は悲運ではない。いい選手に出会えて、8度も日本シリーズに出場できたのだから、大変な幸せ者だった」。

 球界はまた1人、偉大な熱血指導者を失った。

 ◆西本幸雄(にしもと・ゆきお)1920年(大9)4月25日、和歌山県生まれ。和歌山中(現桐蔭高)から立大。立大時代は投手から一塁手に転向し主将。東洋金属-八幡製鉄-全京都を経て入った星野組(別府市)では49年に監督兼一塁手で都市対抗優勝。50年、毎日(現ロッテ)の創立と同時に入団。主に一塁手だった現役時代は55年に引退するまで通算491試合、1133打数276安打(打率2割4分4厘)、6本塁打、99打点。56年から毎日の2軍監督、コーチなどを務め、60年大毎監督に就任。いきなりリーグ優勝を果たすも、日本シリーズで4連敗し退団。63~73年阪急監督、74~81年近鉄監督。67年には阪急、79年には近鉄を球団創設初優勝へ導く。リーグ優勝8度で、3チームを優勝に導いたのは他に三原脩監督だけ。監督通算1384勝は歴代6位。79年正力賞受賞。88年野球殿堂入り。