不屈のエースが涙で去った。右肩手術から現役復帰を目指していたソフトバンク斉藤和巳リハビリ担当コーチ(35)が29日、復帰を断念し、31日付で退団すると発表した。07年を最後に登板機会がなく、リハビリを続けてきたが、1軍戦力としての復活レベルに至らず、決断した。今後は未定ながら、球団は指導者としての資質を認めた。

 限界に挑戦してきた右腕がグラブを置いた。再び1軍マウンドに立つことを信じ、メスを入れ、6年に及んだリハビリ。斉藤コーチは現役復帰を断念した経緯をひと言ずつ、丁寧に語った。

 「1軍の戦力になるというのが(手術を)決断する大きな要因だった。そういう部分を考えると特に今月に入って、そのイメージが自分の中でなくなってきていた。もうここでけじめをつけるのが一番かと」

 日焼けした顔にここまでの取り組みがにじんだ。1年前もユニホームを脱ごうか悩んだという。心が折れかかったが、周囲の励ましを受け、立ち上がった。

 「もう1年やるなら、今まで以上の覚悟をもって臨まないと、今までやってきたことがすべてぶれてしまうような気がした。そういう覚悟を持って、期限ぎりぎりまでやってきた」

 支配下登録の期限が7月末に迫り、最後は痛み止めを服用して可能性にかけたが、目指した状態までたどり着けなかった。28日には西戸崎合宿所で現役最後のピッチング。「寂しい気持ちはありましたけど、ピッチャーで良かったなと思いました」と涙ぐんだ。

 03年にダイエーの日本一に貢献。それから4年間で沢村賞を2度獲得など、エースとして強烈な輝きを放った。07年は登板のたびに右肩は亜脱臼に近かった。肩の筋肉を動かす際に大切な腱板(けんばん)の損傷だった。08年と10年に手術を受けた。この手術から第一線に戻った選手はいないともされたが、「自分はどうしたいのか。自問自答したら、まだ投げたい気持ちが強かった」という前向きな心で突き進んだ。

 肩の状態は一進一退。この間、10年限りで支配下登録を外れ、11年からはリハビリ担当コーチとになった。それでも応援してくれる仲間、ファン、家族に支えられ、ここまで闘えた。最後は「めげずに応援して待ってくれていたことに感謝します」と声を絞った。

 不屈の精神で18年間のプロ人生を走り抜けた。会見で「悔いが残る」と言い、その後も「悔いしか残っていないくらい。でもこれが僕の力というか実力。そんな甘い世界じゃない」と語った。頂点とどん底の二極を体験した男の偽らざる本音だった。「これから先のことは何も頭に浮かんで来ないし、イメージも湧かない」と今後については白紙を強調。「明日以降、何するかも決まってない。甲子園に行こうかな」と笑った。あまりに長い年月をストイックに生きた。その歴史は色あせず、人々の心に刻まれていくはずだ。【押谷謙爾】

 ◆斉藤和巳(さいとう・かずみ)1977年(昭52)11月30日、京都府生まれ。南京都(現京都広学館)から95年ドラフト1位でダイエー入団。03年に26試合登板で20勝3敗、主要タイトルを独占して沢村賞も受賞。05年は16勝1敗。06年18勝で2度目の最多勝と沢村賞に輝いた。その後は右肩を2度手術し、6勝3敗だった07年を最後に6シーズン登板機会がなく、リハビリを続けた。10年限りで支配下登録を外れ、11年からリハビリ担当コーチの肩書で現役復帰を目指していた。192センチ、95キロ。右投げ右打ち。妻はタレントのスザンヌ。