巨人原辰徳監督(55)の父、貢氏(東海大系列野球部顧問)が5月29日午後10時40分、入院先の神奈川県相模原市内の病院で心不全のため死去したことが同31日、発表された。享年79歳だった。5月4日に心筋梗塞と大動脈解離を併発し、緊急入院して治療を受けていた。約1カ月近い闘病の末に、亡くなった。原監督はオリックス戦(京セラドーム大阪)の試合後まで訃報を公にせずに指揮し、執念の采配で延長12回を制して、天国へ劇的勝利をささげた。

 原監督に最愛の父の、そして恩師の勝利への執念が宿った。貢氏は2日前に死去。だが自らは選手に事実を伝えることはなく、指揮を執り続けた。あまりに劇的な勝利を手にし「いろんな勝負があるが、まさに無限大の勝負の形があると身をもって知った」と興奮気味に語った。

 悲しみをこらえ、激戦を制した。金子には9回無安打無得点に抑えられた。菅野からは6投手を小刻みに継投した。延長11回1死満塁では久保を投入し、絶体絶命の場面を乗り切った。そして延長12回、キャンプの右手人さし指骨折からこの日1軍に昇格させた亀井が決勝弾。合流した時に「それじゃ、何回ケガをしても体が足りないぞ」とハッパをかけた男が期待に応えた。勝利へ全精力を注ぎ、帰りのバスに乗り込んだ後、訃報を初めて発表した。

 父は倒れる時も剛気の人だった。4日、ゴルフから帰り、背中の痛みを訴えて病院へ行った。診察を行った医者に「俺だからこうしていられる。普通の人なら無理な痛みだろう。俺はまた、ゴルフがやりたい。先生、よろしく頼むな」と伝えたという。「もしオヤジじゃなかったら、そうは言えないな」。倒れた翌5日は中日戦を川相ヘッドコーチに託したが、後は病院に寝泊まりしながら、監督の職務を全うする日々だった。

 闘う勝負師の血は、親から子へと受け継がれた。原監督が東海大相模高に入学する時、誓いを立てられた。「普通のやつが1発、殴られるので済むのが、お前は2、3発になる。いいのか?」「五分五分でも6対4でも別の選手を使う。7対3ならお前を使う」。親子鷹の関係を通して、厳しさをたたき込まれた。

 プロ選手になる時は「マージャンをやれると先輩には言うな。付き合いが増えて練習ができない。選手として一人前になるまで言うなよ」と忠告した。監督になる時は「酒を飲んで、暗い部屋で寝ながら考え事をするな。そうしても、いい考えは出てこない。部屋を明るくして、きちっと座って考えなさい」と助言された。さまざまな教えは勝負の世界を生き抜くための金言だった。

 親子鷹は自然と卒業していた。09年WBCで日本代表監督として世界一に輝き、貢氏は目を細めていたという。「お前は俺を超えた。好きなようにやればいい」。父と子は野球道において肩を並べるようになった。

 近く近親者のみで行う通夜、葬儀が終わるまで、原監督は父への思いについては明かさない意向だ。巨人監督として勝利へまい進する。そのことを父が誰よりも望んでいることを信じて。

 ◆原貢(はら・みつぐ)1935年(昭10)3月30日、佐賀県神埼郡生まれ。鳥栖工で投手兼一塁手。東洋高圧大牟田で55年都市対抗出場。58年に引退後、同社勤務中の65年夏、三池工の監督として甲子園に初出場し、エース上田卓三らを擁し初優勝。元東海大野球部監督、原辰徳プロ野球巨人監督の父。巨人の菅野智之投手は孫。