中邑真輔(35)ほど自分をプロデュースすることに長けたプロレスラーはいない。入場の際に着るコスチュームを自分でデザインし、リング上での奇妙なクネクネダンスも、「イヤァオ!」という決めぜりふも、他のレスラーが真似のできない中邑独自のものだ。

 中邑は、自分の見せ方を知っている。青学大時代は、レスリング部の主将でありながら、美術部の部長も務めた。大学の体育会に所属しながら他の、しかも文化系の部に属するなんて、本来ならあり得ない話だ。しかし中邑は「時間の使い方じゃないですか。自分は時間があったから、ほかに興味があることをやったんです」と事もなげに言った。

 プロレスラーになっても、プロレスだけでなく総合格闘技にも参戦した。さらに、絵もプロ並みの腕前で、個展を開くほどだ。それぞれの活動をしながら、総合格闘技や美術を、プロレスに集約させるところが、中邑のすごさだと思う。

 中邑の決め技として有名な「ボマイェ」という顔面へのひざ蹴りについて、その技へのこだわりを聞いたことがある。「あの技は、ボクが総合格闘技の試合で何発も食らって、死ぬ思いをして、その痛み、怖さを知っているからこそ使うんです。背が高くて、足が長いというボクの特徴を生かせる技なんです」。高山にヒザ蹴りを食らって眼窩(がんか)底骨折の重症を負ったこともある。それを怖がるどころか、中邑は自分の必殺技にしてしまった。

 新日本では、エースの棚橋弘至と、団体の両輪として活躍してきた。新日本の知名度を上げるため、プロレスを知らないファンの入口になろうと、自分のキャラクターを売り込んだ棚橋。一方の中邑は、昭和時代のような痛みの伝わる激しいプロレスで、アントニオ猪木を継承する「キング・オブ・プロレス」の異名を取った。中邑は、リングで目の肥えたファンをうならせ、世界中に「新日本に中邑あり」を印象づけてきた。棚橋と中邑の功績に優劣をつけることはできない。自分ができることで、新日本を盛り立て、人気のV字回復につなげた。

 15年の1・4東京ドームでの飯伏幸太戦、さらに同年8月、G1決勝での棚橋戦、そして今年の東京ドーム大会でのAJスタイルズ戦。中邑の戦いは、プロレスのすごさを存分に見せてくれた。かつて、G1で優勝したときに叫んだ「1番すごいのは、プロレスなんだよ!」の言葉を、中邑は自分の戦いの中で、常に実践してきた。

 12日、中邑の新日本退団が発表された。中邑の1面ハイライト原稿を書きたいと思っていた記者の願いは、新日本ではかなわなかった。でも、中邑のプロレスは、しっかり記者の目に焼き付いている。【プロレス担当=桝田朗】