東日本ボクシング協会の新会長となる花形進会長(左)と渡辺均現会長
東日本ボクシング協会の新会長となる花形進会長(左)と渡辺均現会長

継続は力なり。これほどこの人を表すのにふさわしい言葉はないだろう。4月から東日本ボクシング協会会長に就任する花形ジム花形進会長。WBAフライ級で日本人13人目の世界王者となった。兼任の日本プロボクシング協会会長はくしくも13代目で、日本のトップに立つことになった。モットーも「明るく、クリーンに、粘り強く」を「花形イズム3カ条」とする。

協栄河合ジムに入門し、1歳さばを読んで16歳でプロになった。デビューは判定勝ち後連敗したが2カ月で3試合した。4回戦は8勝5敗3分け。10回戦は32戦目で、そこまで15勝8敗8分けだった。

初の10回戦で初のKO勝ち。努力がようやく実を結びだし、大場政夫にも判定勝ち、1年後に日本王座を獲得した。米国でWBC王者トーレスをノンタイトル戦も判定で破り、一気に期待の星になったが、69年のトーレスに敵地メキシコでの世界初挑戦は完敗した。

71年にフィリピンでWBC王者サラバリアに再挑戦は判定負け。72年にはWBA王者大場と再戦で3度目の挑戦。風邪をひき、計量も最初はオーバーから大接戦を演じたが及ばず。73年にタイでWBA王者チャチャイに4度目の挑戦も判定負けした。

74年に日本にチャイチャイを呼んで5度目の挑戦。王者が体重超過で王座剥奪となり、左ジャブで主導権を握って6回TKO勝ち。11年目、59戦目でついに世界王座を獲得した。東京のジム以外から初の王者へ、長い長い道のりだった。

初防衛戦はサラバリアに1-2の判定負けで会場は警官も出動する大騒動になった。75年には再戦は判定負け。76年にはメキシコでカントに7度目の挑戦も失敗でついに引退した。

その後も道は長かった。ジム経営は頭にあったが資金がなく、焼き鳥店やスナックで働いた。テレビ解説の仕事で再会した元ジムメイトの援助を受け、85年に念願のジムを開いた。引退から9年がたっていた。00年には星野敬太郎が世界王座を獲得。日本では初の師弟で世界王者となった。

機動力にスタミナを生かし、打って離れてのヒット&ラン戦法。KO負けは1回だけ。41勝(7KO)16敗8分と通算65戦も、現役時のダメージはまったく感じさせない。72歳の今もミットを持ち、自らもサンドバッグを打つ。「何よりあきらめずに続けること。あとはスタミナ」と、いまだ継続する。

神奈川のジムが集まる拳志会の会長を長年務め、毎月集まりがある。明るい性格で人望もあり、拳志会の後押しに応えての就任となった。「何事も理事のみんなで話し合って決めていく。少しでも会員を増やせるように3年頑張るよ」。

世界王者、ジム、世界王者育成と目標を実現してきた。長男晋一氏は現在はマネジャー。親子王者はかなわなかったが、ラスベガスで世界戦の夢も持つ。【河合香】(ニッカンスポーツ・コム/バトルコラム「リングにかける男たち」)

WBA世界フライ級タイトルマッチ チャチャイ・チオノイを下し喜ぶ花形進(1974年10月18日撮影)
WBA世界フライ級タイトルマッチ チャチャイ・チオノイを下し喜ぶ花形進(1974年10月18日撮影)