4月6日、ボクシングの元世界2階級王者粟生隆寛(36=帝拳)が自身のSNS上で引退を発表した。36歳の誕生日だった。一時代を築いた王者の目からは涙があふれた。新型コロナウイルス感染拡大の影響で、会見はできず。発表から1カ月がたった6日、栄光と挫折を経験した17年間のプロ生活をあらためて振り返りつつ、現在の思いを聞いた。(敬称略)【取材・構成=奥山将志】

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天才。エリート。粟生には、そんな言葉がいつもつきまとった。3歳でボクシングを始め、父広幸さんと二人三脚で技術を磨いた。千葉・習志野高で史上初の「高校6冠」を達成。大きな注目を集めて転向したプロの世界でも、日本人7人目の2階級制覇を達成するなど活躍を続けた。だが、減量苦の影響もあり長期政権を築くことはできず、キャリア終盤は、試合から遠ざかる日々が続いた。

「今、振り返ってみると、正直『もっといけたな』という思いもあるし、『ここまでこられた』という思いもある。世界チャンピオンになれたという満足感、3階級制覇できたんじゃないかという悔しさ、両方の感情が残っている」

同じ時代に活躍した西岡利晃、長谷川穂積のような派手さこそなかったが、切れ味鋭いカウンターを中心とした卓越した技術は、多くの選手、関係者から称賛された。対戦する相手の研究はわずか3分。「自分のボクシングをすれば勝てる」。追い求め続けてきた技術への自負が、粟生にとっての生命線でもあった。

「僕は一般受けするボクサーだったと自分でも思っていない。(元WBC世界スーパーフライ級王者の)西岡さん、(元WBAスーパーバンタム級王者の)下田だったりが持っている野性の勘というか、いけるときにいく強引さが自分にはなかった。技術に頼りすぎた部分があったのかもしれないが、それがあったからここまで戦ってこられた」

12年10月にWBCスーパーフェザー級王座から陥落。そこから約7年半、長いトンネルが続いた。層が厚いライト級での3階級制覇を目指し、チャンスが来たのは15年5月。空位のWBO王座をかけ、米ラスベガスでレイムンド・ベルトランとの対戦が決まった。試合は2回TKO負け。だが、前日計量で体重超過したベルトランに、後日、禁止薬物の使用が発覚した。試合結果こそ、無効試合に変更となったものの、待望のチャンスは、相手の“暴挙”により奪われた。

悪夢は続いた。同年11月に設定されたノンタイトル戦に向けたスパーリング中、バックステップした瞬間、左足に激痛が走った。腓骨(ひこつ)筋腱(けん)脱臼。手術を受け、練習に復帰するまで半年かかった。31歳。引退につながる大けがだった。

「復帰戦が決まり、もう1度ここからというタイミングでやってしまった。3階級制覇がそれほど遠いものだとも思っていなかったし、気持ちも切れていなかった。ただ、まったく練習できない時期があれだけ長く続いた。年齢的なことを考えても、あれで(チャンスが)遠のいていったのかなと思う」

18年3月に2年10カ月ぶりのリングに立った。対戦相手は、7年半前に世界王座を奪われたガマリエル・ディアス。判定勝ちを収めたが、それが最後の試合となった。

WBCスーパーフライ級王者川島郭志に憧れた幼少期。小学校の文集にはWBCのベルトの絵を描き、隣に夢を記した。「ぼくはプロボクサーがゆめです。プロボクサーになったら客をよろこばせたい。りっぱなチャンピオンになる」。

その言葉通り、WBCのベルトを2本取った。そして、「天才」は、苦しみ、もがきながら、グローブをつるした。今後は育ててもらった帝拳ジムでトレーナーを務めていくという。

「ボクシング、ジムへの恩返しをしないといけないと思っています。いずれは自分でジムをという思いもありますし、指導者として良い選手を育てていきたいですね」

期待という重圧とともに歩み続けてきた。豊富な経験は、今後の引き出しになる。第2の人生も、ボクシングとともに生きていく。

◆粟生隆寛(あおう・たかひろ)1984年(昭59)4月6日、千葉県市原市生まれ。3歳からボクシングを始め、千葉・習志野高では選抜、国体、総体を2度ずつ制し、史上初の高校6冠を達成。アマ戦績は76勝(27KO・RSC)3敗。03年9月にプロデビュー、07年3月に日本フェザー級王座獲得。09年3月にWBC世界フェザー級王座、10年11月に同スーパーフェザー級王座を獲得し、2階級制覇。左ボクサーファイター。168・5センチ。プロ戦績は28勝(12KO)3敗1分け1無効試合。