顔じゃない-。角界の隠語で、しばしば使われる「身分相応でない」という意味で使われる言葉だ。その「顔」の意味を、相撲担当初日に教えられたのだから、つくづく自分は幸せ者だと思う。教えてくれたのは、あの大将…。

 昭和も最後の年末となった88年12月末だった。それまでのプロ野球から、大相撲への担当替えとなって始動の日。先輩記者から命ぜられたのが、九重部屋の朝稽古取材だった。相撲取材のいろはも、何の予備知識もない。緊張の体で背筋を伸ばし、正座で凝視すること約3時間。稽古が終わり、いよいよ横綱の話を聞く時間がやってきた。

 その前月(昭63年11月)の九州場所千秋楽結びの一番。結果的に昭和最後の一番となった横綱対決で大乃国に敗れ、千代の富士は連勝記録を歴代2位(当時)の「53」で止められた。だが年の瀬の穏やかな時間の中、横綱は思いのほか柔和な表情で、私ともう1人の今は亡きベテラン雑誌記者と向き合ってくれた。

 約30年前のことだ。取材の内容は覚えていない。強烈に覚えているのは、最初にあいさつしたシーン。自己紹介のように社名と名前と「よろしくお願いします」の言葉を告げ、おもむろに名刺を差し出す私。それに対し横綱は、薄笑いを浮かべ困ったような表情で一応は受け取った後、さまざまなポーズをとった。

 服を着ていればポケットがある左胸のあたりに名刺を入れるしぐさをして「あっ、裸だからポケットはないんだよな~」。今度はズボンを履いていればポケットがある左右の腰の位置に名刺を持っていき「ここにもポケットはないんだよな…。ここに、はさむわけにはいかないしなぁ」。何重にも巻いた白い稽古まわしの間に名刺を挟むしぐさをしながら、子供のように無邪気に口をとがらせ、でも薄ら笑いを浮かべながら、突き刺すような視線を送ってきた。

 「おい、若い衆。しまっておけ」。横綱がその名刺を付け人に手渡し、その場は収まった。そして言われたのが「何回も来なきゃ駄目だぞ」の言葉。親の七光も、それまでの実績も、何も通用しない裸一貫で勝負する世界だ。一般社会では覚えてもらえる会社の名前など、この世界では何の意味も持たない。前述の横綱の言葉は、かみ砕けば「何回も来て顔を覚えてもらいなさい。腹を割って話をしてもらえるかは、それからなんだよ」という意味なのだと、後で思い知った。

 同じように、相撲メディアの間で周知されている「目と目が合えば50行」という言葉(50の数字は80でも100でもいい)がある。信頼関係を築いた取材対象の力士とは、言葉を交わさずとも目と目が合えさえすれば、あうんの呼吸で胸中を分かり合える。だからコメントなどなくても、50行ぐらいは平気で書けなければいけない、という意味の言葉だ。

 前段の横綱の言葉もそう。上っ面のバックボーンなど何ら役にも立たないのがこの世界。問われるのは、足しげく通い、顔を覚えてもらい、そうした積み重ねで得られる信頼感、人間力のようなもの。相撲に限らず、その後の記者生活の礎になった。8月7日、容赦なく照りつける太陽の下、出棺される棺に手を合わせた。先代九重親方、いや「大将」が荼毘(だび)に付されても、あの言葉は自分の心の中で生き続けている。【渡辺佳彦】