6日に新日本プロレスが旗揚げ50周年を迎えた。契約上の問題で区切りイベントに絡むことはできなかったものの、団体の歴史上で中邑真輔(41)、ブロック・レスナー(44)は「新日本」「アントニオ猪木」には欠かせない存在だ。第25回「WWEの世界」は、猪木も前身WWFヘビー級王座に絡んで活躍したWWEを主戦場とする中邑とレスナーの「闘魂注入」をおさらいする。

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WWEで猪木の代名詞を引き継ぎ、愛称は「キング・オブ・ストロングスタイル」。中邑は世界に「ストロングスタイル」という言葉を広げている。02年の新日本プロレス入門後から猪木に見いだされ、総合格闘技路線へ。現役時代、異種格闘技にも挑んだ猪木の期待を受け、米ロサンゼルス道場で修業した。同年大みそかには、猪木祭でダニエル・グレイシーと総合ルールで対戦して敗れた。

総合ルールで03年にK-1の身長211センチの巨人ヤン“ジャイアント”ノルキヤを下し、K-1のアレクセイ・イグナショフとは2戦(03年大みそか、04年5月)で1勝1無効試合。23歳9カ月の史上最年少でIWGPヘビー級王者となり「選ばれし神(=猪木)の子」と呼ばれた。現在の必殺技キンシャサ(ニー・ストライク)は新日本時代、ボマイェの技名。猪木の入場曲「イノキ・ボンバイエ」がルーツとなっている

06年1月、中邑が東京ドームで対戦したのが、猪木の「最後の刺客」レスナーだった。WWEデビューから5カ月で、最高位のWWE統一王座を獲得しながら契約切れとともに05年10月から新日本に参戦。ミネソタ大卒業後、猪木とスパーリングしていた縁もあり「日本の師」として仰いだ。猪木軍としてIWGPヘビー級王座も獲得。その後、契約上の問題から来日せず、新日本からの王座剥奪も無視、第3代目のベルトを返却せずにトラブルメーカーとなった。

レスナーは07年6月、猪木が主宰した団体IGFの旗揚げ戦に参戦し、カート・アングルに敗れて第3代目ベルトを譲った。この2本同時に存在したIWGPベルトを統一したのが中邑だった。08年2月、当時のIWGPヘビー級王者として、3代目ベルト保持者アングルと対戦して勝利。無事にベルトは1つになった。中邑、レスナーの2人が猪木とIWGPベルトを絡めた新日本の歴史をつくってきたと言っていい。また新日本離脱後、レスナーは米総合格闘技UFCに参戦し、ヘビー級王座を獲得。猪木の格闘技路線を継承したような活躍だった。

05年には新日本のオーナーから外れた猪木に向け、中邑は09年にIWGP王座に返り咲いた際、リング上で「猪木ー!」と叫んで物議を醸した。猪木の名言「一寸先はハプニング」をほうふつさせる言動で団体を活発化させようとした。今思えばレスナーのベルト問題もハプニング好きの猪木魂だったのかもしれない。

現在、猪木が前身のWWFヘビー級王座獲得(WWEは未承認)したWWEヘビー級王座は、現在、レスナーが保持している。16年からWWEに移籍した中邑も最高位王座を目指して奮闘している。新日本50周年の歴史を振り返りつつ、闘魂を注入されてきた中邑、レスナーの動向を追うのも面白い。【藤中栄二】(ニッカンスポーツ・コム/連載「WWEの世界」)

2004年5月 中邑真輔(左)とアントニオ猪木
2004年5月 中邑真輔(左)とアントニオ猪木