聖地に散った。WBA世界ミドル級王者村田諒太(32=帝拳)が完敗で王座から陥落した。2度目の防衛戦で同級3位ロブ・ブラント(28=米国)に0-3(110-118、109-119×2)の判定負けを喫した。徹底研究を受け、速さに対応できず、劣勢が続いた。最も選手層が厚いミドル級に生まれた日本人王者。ロンドンオリンピック金メダル、そして世界王者と未踏の地を歩み続け、ついに到達したラスベガスのメインで、厳しい現実が待っていた。

「そんなせかさなくても。せっかくみんな来てくれているので」。試合後の控室、目の周囲を紫に腫らして取材に応じた村田が、心配する周囲を優しく制した。自ら時間延長を提案。「完全に負けたなと。実力不足だった。完敗ですね」。真っすぐに痛恨の敗戦に向き合った。そこにも強さは見たが、分岐点の一戦で逃したチャンスは大きく、現実は残酷だった。

採点を聞いた。バンテージを外した拳で拍手した。ブラントをたたえた。12回終了のゴングとともに、負けたのは分かった。「右(ストレート)も読まれていた。研究されていた」。強打の右を左右の動きでそらされ、逆に打ち終わりにジャブをもらった。想像以上の速さに手を焼き、強固なガードで前に出ても、追い込めない。5回には右でぐらつかせる場面もあったが、「倒せるチャンスを倒しきれなかったのが全て」と追い込めなかった。

「ボクシングの幅の狭さを感じた」。右ストレートから左ボディーの連打が武器。類いまれなガード技術を軸に、前に圧力をかけて追い込む。それが村田の「幅」だった。フットワークが機敏なブラント対策に、手数を求めた時期もあった。至近距離の強打、アッパーなども織り交ぜた。ただ、最終的には従来のスタイルに戻した。不器用さを自認し、直前も「なんでこんな当たり前のことができないんだろう」と自嘲することもあった。その謙虚さと客観的視座こそ強さの源だが、敗因は「幅」だった。

これまで村田の右の強打に打ち返してくる相手はいなかった。一本気なスタイルで壁を打ち抜いてきたが、今回は通用しなかった。ブラントは米国でも無名に近い選手だが、それこそが層の厚さの証左。その階級で王者となり、ラスベガスのメインまで到着した。その偉業自体は色あせない。

試合後には契約する米大手プロモーターのボブ・アラム氏が来春に日本での再戦を行いたい意向を示したが、「再戦を要求するような内容ではなかった。(今後については)すぐに答えが出るものじゃないので」と白紙とした。この試合の内容次第だった、東京ドームでの元3団体統一王者ゴロフキンとのビッグマッチも消えた。中学生時代に夢に描いたベガスに立った。その成就の場所で歓喜を得ることはできなかった。【阿部健吾】