力道山やジャイアント馬場のライバルとして知られる伝説の覆面プロレスラー、ザ・デストロイヤーさん(本名リチャード・ベイヤー)が7日(日本時間8日)、米ニューヨーク州北部バファロー郊外の自宅で死去した。88歳だった。

元プロレスラーの長男カート・ベイヤー氏(58)がフェイスブックで亡くなったことを報告した。死因は不明。キャリア約40年、日米で8000試合以上を戦い、お茶の間の人気者でもあったマスクマンの草分け的存在が、この世を去った。

デストロイヤーさんと取材などを通じ50年近くの交流があった日刊スポーツ新聞社の海外プロレス担当、デーブ・レイブル通信員がエピソードを織り交ぜ故人を悼んだ。

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今年の正月、ニューヨークにあるデストロイヤーさんの自宅に電話した際に、受話器から聞こえてくる声は、非常に元気そうでした。クリスマスカードをいただいたお礼、新年のあいさつなど、季節が変わるごとに話しており「久しぶりに、今年の春に会いましょう」と話していた直後の体調急変でした。17年に日本で叙勲を授与された時には「ヒールの自分を日本が愛してくれた。テレビで有名にしてくれた。日本の皆さんからいただいたものだ。本当にレスラーになって良かった」と、いつも日本行きを楽しみにされていた声が忘れられません。

1962年1月、ハワイのホノルルを転戦していたデストロイヤーさんのもとに、米ロサンゼルスのジュール・ストロングホーン・プロモーターから連絡が入り「ロスでマスクマンになってくれないか」とオファーを受けたそうです。同年4月にロス入りしたものの、用意されていたマスクが顔に合わず、視界が遮られて戦いにくかったと振り返っていました。そこでウィルマ夫人がガードル(女性補正下着)の布を利用し、ミシンでお手製のマスクを製作。デストロイヤーさんは「伸縮性があって顔にフィットした。デストロイヤーが成功したのはマスクのおかげ。大きなポイントだった」と笑顔で明かしてくれたことが思い出深いです。

マスクの縁取りはレッドが多かったですが、ブラック、ブルー、グリーンと夫人がバリエーションを考えていたようです。AWAマットで額に「X」マークが入ったマスクをつけ「ミスターX」としてファイトしましたが、これも夫人お手製。当時、同一レスラーが2つのマスクを使い分けたケースは非常に珍しく「2つの『顔』ができたことも驚愕(きょうがく)だったよ」と振り返っていました。

「自分のプロレスの原点だ」というロサンゼルスでマスクマンに変身。初めて世界王座(WWA)を獲得し、65年2月には本物の熊とも決闘して注目を浴びました。WWAマットではミル・マスカラスとも対戦。お互い全盛期の激突はドローでしたが、全米の知名度は非常に高まりました。前身団体を含めて所属レスラーではなかったWWEがデストロイヤーさんの訃報を公式サイトで伝えたのも、米国での功績の大きさを証明したものだと思います。

ロサンゼルスではジャイアント馬場、アントニオ猪木とも対戦しています。「馬場は大巨人なのにテクニカルで寝技の攻防も高いレベルで驚いたよ。若い猪木はこれからの日本のプロレスを背負って立つだろうと楽しみだった」との思い出も話していました。そして永遠のライバルとなる力道山については「本当にタフでそれまで戦ってきた中で1番タフでガッツがあった。あの日、自分が米国に帰らなければ力道山は殺されなかった」と沈痛な表情で振り返っていました。もう「リキドーゼン」と発音する思い出話をうかがえないのはさみしいです。ご冥福をお祈りします。(デーブ・レイブル通信員)