アントニオ猪木さんは昭和の時代に「巌流島の決闘」をよみがえらせた。ちょうど35年前の1987年(昭62)10月4日、山口・下関市の関門海峡に浮かぶ巌流島(現船島)。観客のいない無人島に設置されたリングで、マサ斎藤と2時間5分14秒に及ぶ死闘を演じた。

なぜ、伝説の名勝負は実現したのか。あの戦いを仕掛けた元新日本プロレス取締役の上井(うわい)文彦さん(68)がその舞台裏を明かし、故人との思い出を語った。

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「巌流島の戦い」は、猪木さんの弟子である藤波辰爾の放った一言が発端だった。当時、新日本の営業部長だった上井さんは87年4月、試合のオフの日に地元・下関にたたずむ標高約270メートルの低山「火の山」に藤波を連れて登った。すると展望台で藤波が指をさした。

「おい、あそこが巌流島だろ。あそこで俺と長州がやるのはどう?」

宮本武蔵と佐々木小次郎。2人の武芸者が慶長17年(1612)4月13日、無人島で命を懸けて雌雄を決した歴史に残る決戦の地。プロレス人気に陰りが見えた時期に、純粋な一騎打ちに立ち返った。上井さんも、一旗揚げるために大賛成だった。

同年夏。テレビ朝日の特番の企画案として提出すると、当時の新日本プロレス副社長、倍賞鉄夫さんもこれに賛同。とんとん拍子で試合の実施が決定した。だが、ふたを開けてみると、当時44歳の猪木さんが、維新軍のマサ斎藤さんを迎え撃つというものにすり替わっていた。猪木さん自らの決定だった。「藤波さんには申し訳なかった…。でも、レスラーだったら当たり前。目立つことは自分がやりたかったんじゃないかな」。上井さんは、そう、猪木さんを推し量る。

猪木さんは後に日刊スポーツの取材に対し、この一戦について「本気で死を決意した。死ぬ前に大きな花火を打ち上げようと思った」と振り返っている。団体の人気低迷、ブラジルで興した「アントンハイセル」の経営破綻、妻の倍賞美津子との離婚危機…。なんとか巻き返しをはかりたい。猪木さんの、この大勝負にかける思い入れは相当なものだったのだ。

上井さんはすぐに下関に飛び、地元の観光協会のプロモーターと話をつけた。「島の3分の1は三菱重工の持ち物。だから3分の2を使ってやりましょうとなった」。人脈を駆使し、熱意を伝え、10月4日の開催にこぎつけた。

観客もレフェリーもいない。演出も、駆け引きもない。プロレスを超えた本物の決闘は、このようにして生まれた。あの日のことは、35年たった今も忘れることはない。空を飛ぶ報道陣のヘリコプターや島の空気さえ。「とってもいい天気でした」と懐かしんだ。

その後、上井さんは02年からマッチメーカーを任されるなど、猪木さんからの信頼を勝ち得た。だが、「マッチメーカーになったことよりも、僕のプロレス人生で自慢できるのはあの巌流島決戦ですね」と、あの1日が生涯の誇りとなっている。

猪木さんとは3年前の通話が最後になった。「いつものとおり『元気ですかー!』で入るんだけど、その声が元気じゃなかった。『上井、いつも元気ですかと言ってるけどよ。俺が元気がないんだよ。腰が痛くてしょうがないんだよ』と言っていた」。ともにした約40年間で初めて聞いた泣き言だった。「テレビでつらそうな様子が映るたびに切なかった。(訃報は)覚悟はしていましたけど…」と、言葉を詰まらせた。

だが上井さんには、天国でも悠然と構えている猪木さんの姿が目に浮かぶ。「俺は一緒だったとずっと自慢していきたい」。そう胸を張った。【勝部晃多】

◆上井文彦(うわい・ふみひこ)1954年(昭29)4月4日、山口県生まれ。大学卒業後、77年夏に新日本プロレス入社。営業部に配属。83年の第1次UWF設立に参加。86年1月のUWF勢の新日本へのUターン復帰に際し、再入社。マッチメーカーなども務め、取締役に。04年に新日本プロレスを退社。ビッグマウス・ラウドを経てUWAIステーションを設立。19年2月に「マサ斎藤追悼興行」開催。現在は、プロレスの第一線から退いている。大阪市在住。

◆巌流島対決VTR それまで幾度となく対戦してきたアントニオ猪木とマサ斎藤が、納得のいく結果ではなかったため観客、レフェリー不在で完全決着をかけて戦った。試合開始時間は事前に明言されず、「夜明けと同時にゴング」とされていた。猪木が午後2時31分、斎藤は3時50分に船で島へ上陸。4時半に試合はスタートした。リング上での技の応酬から、いつしか戦いの場はリング外の芝生へ移行。すっかり日も落ち、かがり火の中で戦いは続いた。最後は猪木が裸絞めで斎藤を締め落とし決着。開始のゴングから2時間5分14秒が経過していた。