プロレス界のカリスマ三沢光晴選手が亡くなった。2代目タイガーマスクとして注目を集め、素顔になってからは故ジャンボ鶴田さんの後を継いで全日本のエースとして活躍した。ジャイアント馬場さんが亡くなった1年半後の00年に全日本を退団し、新団体のノアを旗揚げ。社長兼現役レスラーとして団体の枠を超えて人望が厚く、プロレスラーとしての風格は別格の存在だった。

 強くて、優しく、ぶれない男の象徴だった。ノアのGHCヘビー級王座を3回、全日本の3冠ヘビー級王座を5回獲得するなど国内外の数々のタイトルを手中に収めた猛者が、戦いの最中の事故で亡くなった。

 81年に全日本プロレスにに入門。メキシコへの海外武者修行から帰国後に、中学で体操、高校でレスリングで培ったセンスを開花させ、2代目タイガーマスクとして脚光を浴びた。90年の試合中に自らマスクをはぎ取ると、翌91年には当時トップレスラーだったジャンボ鶴田さん(故人)を初めてシングルマッチで撃破し、以降は日本プロレス界の顔としての道をばく進した。

 全日本では川田利明、小橋建太、田上明らと「四天王」と呼ばれた。得意技のエルボーや、相手を垂直に落とすような投げ技など、容赦ない技の応酬でファンの度肝を抜いた。馬場社長の死去後に社長を引き継いだが、方針の違いなどから全日本と決別。新団体のノアを旗揚げした。面倒見の良い人望を慕い、全日本のほとんどの選手が三沢選手について行った。「一生懸命やっている選手にはチャンスをあげたい」と、人気だけでなく、努力を重んじる包容力に信頼が厚かった。

 派手なマイクパフォーマンスを嫌い、リング上での戦いですべてを表現してきた。筋を通さない相手は「絶対にノアのマットには上げない」という、かたくななまでの姿勢も際立っていた。普段の口数は多くないが、1度心を開いた相手には冗舌に語る面もあった。04年には多忙の中、5時間近くインタビューに時間をさいてもらったことがある。学生時代のこと、娘や愛犬のことをじっくりと話してくれた。選手、団体を含め、最強と思うライバルについて質問すると「ぶっちゃけ、そういう存在はいないよね」。強い口調で言い切った。他団体、他の選手への評価を好まないが、自らのプロレス観に絶対の自信をみなぎらせていた。

 若い時代からのケガの蓄積、社長の重責と、地上波放送がなくなるなど心労も重なり、心身ともボロボロになっていたのかもしれない。「プロレスが一番面白い」という一念にささげた人生。リングで最期を迎えたのは三沢選手にとって本望だったに違いない。【新島剛】