北海道南西部、有珠山のふもとで育った。洞爺湖で泳ぐのが大好きだった。壮瞥小6年の時、すでに167センチ、80キロに達していた。

 証言 母テルコさん(78) 「今のように物の豊富な時代でないからねえ。8人も兄弟がいるから、(北の湖は7番目)自分だけたくさん食べるわけにいかない。みんなが食べた後で、おひつに残ったご飯をたいらげていた。納豆があの子のごちそうで、弁当にも納豆を入れてくれと」。

 体が大きいからと、祭りの子供相撲大会には出させてもらえなかった。ソフトボールでも左打ちをさせられた。それでも球はさくを越えた。

 証言 小学校の同級生、毛利文康さん(41=会社員)

「木になっているリンゴをもいでくれた。ボートに乗るといつもこぎ手を買って出た。体をぶつけ合うたぐいの遊びでは、絶対に本気を出さなかった。彼の周りにはいつも体の小さな子が寄り添っていた」。

 傷つきやすいもの、傷ついたものに対して、人一倍神経がこまやかだった。横綱昇進後初めての土俵入りは、育ての親・先代三保ケ関親方の三つぞろい(太刀持ち、露払いと3人ぞろいの化粧回し)で務めた。

 証言 現三保ケ関親方(46=元大関2代目増位山) 「おやじ(先代三保ケ関)が大関時代に後援者に寄贈されたものだが、横綱になれなかったため、ついに巻くことができなかった。おやじはそのことをずっと気にしていた。北の湖はそれを知っていた。どちらかが頼んだとかじゃなく、自然の流れでそうなったんだろう」。

 82年(昭57)に入ると、度重なるケガと年齢的な衰えでさすがに休場が多くなった。弱音ははかなかったが、次代を担う千代の富士は、大横綱の弱点を体で知った。

 証言 九重親方(40=元横綱千代の富士) 「初めて優勝した時(81年1月場所)、北の湖関の右ひざが、ついてこない気がした。右がどこか痛いんじゃないかと、初めてスキのようなものを見た」。11月場所からは全休3場所を含む6連続休場。両ひざ、特に右が悪化した。「引退」のうわさは自然に出た。その危機を、一度は気力ではね返してみせた。

 証言 北の湖親方 「もう1回優勝をしなければ、引き下がれなかった。逆療法をやった。痛いひざをいじめた。坂道の自転車こぎを半年間、毎日2時間やった。また、ひざを内またにしてジワーッと下ろすスクワットも、200回ずつやった」。常識からみれば「リハビリの禁じ手」をあえてやった。84年(昭59)5月場所、7回目の全勝で通算24回目の優勝を飾る。奇跡の復活だった。最後の優勝でもあった。85年(昭60)1月、夢に見た両国の新国技館の場所で、初日から2連敗した。最後の相手は当時平幕の多賀竜だった。

 証言 勝ノ浦親方(37=元関脇多賀竜) 「横綱は雲の上の人だった。引退の一番は自分にとって唯一の金星。頭で当たって突っ込んだ。横綱に引かれたが、そのまま押し込んだ。元気がないなあと思ったが、引退するとは」。

 引退後、相撲協会から一代年寄を贈られた。大鵬に次いで二人目の栄誉だった。

証言 宮沢氏「成績的にも人間的にも、最高の横綱だった。故春日野理事長が、一度は養子にと考えたほどだった。協会内部には、当時すでに、将来の理事長候補という空気があった」。

【特別取材班】

(この項おわり)

★取材後記 北の湖親方の現役時代に取材した先輩記者から、「彼の取材には資料がいらなかった」と話を聞いていた。その相撲は何年何月場所の何日目、ということをすべて本人が言ってくれるというのだ。実際、取材に行ってみてその通りだった。初土俵から輪島との思い出の一番まで北の湖親方はことごとく記憶していた。現役時はこの記憶力の良さを次の対戦に生かしたのだろう。強さの秘密を垣間見た気がした。

 北の湖親方とは初対面だった。名古屋入りしていた北の湖親方に事前にあいさつに行った時、親方はなんと背広、ネクタイで迎えてくれた。暑い名古屋のこと、浴衣姿を予想していたのだが。対応も、はぐらかしたりおちゃらかしたりせず、誠実な人柄がにじみでていた。インタビューを終えた時、「この親方がいる限り、大相撲は大丈夫だ」と思った。

取材担当=本郷昌幸(北海道本社編集部)

(1995年7月24日付日刊スポーツから)