北の湖が横綱に昇進した74年(昭49)、同じ昭和28年(1953年)生まれの麒麟児と栃光(後の金城)が入幕。後に横綱2代目若乃花となった若三杉、大錦とともに「花のニッパチ5人衆」と呼ばれた。角界では前例のない呼び方だった。

 証言 元若三杉の間垣親方(42=元横綱2代目若乃花) 「北の湖関と並べてニッパチと呼ばれたが、私には目標だった。あの当時は、北の湖関に勝ったら館内は大歓声で、ザブトンが舞ってね。その快感が自分の原動力になったことは間違いない」。

 このころ、「新御三家」や「花の中三トリオ」など、同世代のライバルをグループで扱うのが、芸能界でも流行した。この軽いノリを相撲界も受け入れた。現実には北の湖一人が抜きんでていた。

 証言 現二子山親方 「あの体でスピードはあるし、突っ張りも出る。円を描く相撲ができる人だったね。一直線に出てくるんだけど、差し手を返しながら円を描くように攻めてくるんだ」。

 玄人ファンは別にして、美男力士の貴ノ花や若乃花をやっつける北の湖は、茶の間からは悪役に見えた。肩を揺すって花道を歩く姿がふてぶてしいといわれ、負かした相手に手を貸さなかったことが批判された。

 輪島が衰えた78年(昭53)からは優勝を独占し始め、強すぎて憎らしいといわれた。

 証言 間垣親方 「ファンの量の差ではなく、層の違い、質の違いだった。男から見たら、北の湖関のあの強さはあこがれだった。私も、一度でいいから“憎らしいほど強い”と言われたかった」。

 78年(昭53)9月場所では5連覇を達成、この年、大鵬の81勝を破る年間最多勝82を記録した。北の湖の「横綱は負けてはいけない、優勝は横綱から出なくてはいけない」という信念は、みじんも揺るがなかった。しかし、自分の天下が長ければそれでいいという功績主義とは、微妙かつ絶対的な差異があった。

 証言 北の湖 「憎らしいといわれることなど、どうってことはなかった。それより負けることの方がよっぽどつらかった。横綱の重圧がいつもあって苦しかった」。

北の湖は輪湖時代に4回(75年3、5、7月、78年3月場所)、輪島引退後に3回(81年3、5、7月場所)「一人横綱」を務め、7場所で4度優勝した。

 証言 北海道・壮瞥町営「北の湖記念館」勤務の高橋達也さん(40)

「北の湖は、横綱はたくさんいた方がいい、と言っていた。自分の優勝回数は減るかもしれないが、自分がだめなときでもだれかが優勝してくれるから、と」。

 他の力士は、北の湖を破ることで、光ることができた。貴ノ花の2度の優勝や2代目若乃花の誕生は、祭りのような騒ぎになった。千代の富士が大関、横綱の昇進を決めた時も、北の湖を千秋楽で破ってドラマをつくった。

 自身が新横綱をかけた一番では、輪島に2回「待った」をされた。しかし追われる立場になっても、北の湖は絶対にそれをしなかった。真正面から受けて立った。

 証言 元日刊スポーツ相撲担当記者・宮沢正幸氏(65) 「大鵬は何がなんでも絶対王座を死守した横綱だった。一方北の湖には、次の横綱を育てるという意識が強かった。相撲界全体を考えた横綱として、協会の評価は高い」。 【特別取材班】

(つづく)

 ◆新御三家 郷ひろみ、西城秀樹、野口五郎のトリオが7 2年(昭47)にそろってヒットを飛ばした。実際には野口が56年(昭31)の早生まれだったが、55年(昭30)生まれのトリオとして、60年代の「御三家」(橋幸夫、舟木一夫、西郷輝彦)にあやかり、「新御三家」と呼ばれた。郷の「男の子女の子」、西城の「恋する季節」はともにデビュー曲、前年デビューの野口は2曲目の「青いリンゴ」が大ヒットした。その後、郷は「よろしく哀愁」「林檎殺人事件」、野口は「甘い生活」「私鉄沿線」、西城も「傷だらけのローラ」「YOUNG MAN」などを歌い、郷、西城は今も現役で活躍、野口は現在はタレント活動を中心にしている。

(1995年7月23日付日刊スポーツから)