1981年(昭56)横綱昇進直後の夏巡業で、左足首じん帯を損傷した。完治しないまま秋場所に臨み、2日目に同じ個所を痛めて休場した。新横綱の休場は吉葉山以来。「不祥事」と騒がれたが、続く九州場所で優勝した。

 証言 元横綱千代の富士の九重親方 「マスコミで厳しく書かれたのが結果的に良かったと思う。何クソ、と思った。横綱の威厳を守るためには勝つこと、勝つためには自分の相撲の確立しかない。目先の目標を一つ一つクリアすることだと肝に銘じた。部屋を強くするのも目標だった」。

 証言 付け人を務めたこともある八角親方(元横綱北勝海) 「私が幕下に上がる前、巡業先などで私の体が汚れていないと、横綱は兄弟子をしかった。朝4時に起きて5時に土俵へ行き、一つの土俵で先を争ってけいこした。当時一番土俵を取ったのは栃司、益荒雄、琴ケ梅、寺尾だった」。

 85年(昭60)秋場所から、九重部屋が10連覇した。千代の富士は3連覇と5連覇、北勝海が2回優勝した。今度は「北勝海には負けられない」。

 証言 元横綱若乃花、当時の二子山理事長の花田勝治氏(67=現相撲博物館館長) 「大記録は、大目標から生まれやしない。一日1番、勝つことを積み重ねて、記録が後からついてくるんだ」。

 「貴と対戦するまでは辞められない」の新たな誓いを立てたのは、3度目の全休を余儀なくされた88年(昭63)春場所だった。藤島部屋の若花田、貴花田がこの時初土俵を踏んだ。角界の新風を、挑むべき逆風とした。夏場所は6日目に琴ケ梅に敗れただけで優勝、53連勝を開始した。

 2場所連続全勝の後、九州場所14日目に横綱旭富士をつり出して53連勝を達成、千秋楽で大乃国と対戦した。

 証言 陣幕親方(元横綱北の富士、当時九重親方) 「場所中は69連勝もいける、おまえは強いぞと盛り上げた。今でも負けが信じられない。先に上手を取られたが、途中で頭をつけるいつものモールの形になった。いけると思ったよ。そこがスキだったな」。

 寄り切られて双葉山の69連勝突破の夢は消えたが、同年秋場所に全勝優勝した後、角界初の国民栄誉賞の受賞が決まった。

 91年(平3)夏場所初日だった。貴花田との初対決で寄り切られた。土俵下でふっと笑った。「対戦するまでは」の誓いを思い出したのだろうか。3日目に貴闘力に敗れて引退、ティッシュで涙をふいた。

 証言 同じ高砂一門の元大関の朝潮(39=現若松親方) 「北の湖さんは大きい体だけで威圧感があった。千代の富士関の場合は体が小さい分、目が威圧になった。あの目つきは最後まで鋭かった」。

 一代年寄が贈られたが、「部屋を自分の代で終わらせたくない」と、九重部屋継承を決意。93年8月に墨田区石原に部屋を新築した。親方4年目で名古屋場所には念願の関取第1号の千代大海(19=大分生まれ)が誕生した。96年には千代の山、千代の富士をたたえる横綱記念館の建設が故郷の福島町で始まる。

 証言 千代大海 「親方は正月とお盆には必ず実家へ帰してくれます。家族は大切にしろ、が口癖です。2年前からは年間の成績優秀者、上位10人に海外旅行をプレゼントしてくれてます」。

 弟子数35人は角界NO・3の大所帯だ。今も弟子たちに、「身近な目標を、一つ一つ」と教えている。【特別取材班】

 ◆取材後記 千代の富士は横綱をカッコ良く見せることにこだわった。横綱土俵入りのときに前につけるごへい(綱の前に垂れているもの)を5本つけるのにも角度にうるさかった。付け人を務めたことのある元横綱北勝海(32=現八角親方)は「1センチでも左に傾いていたら、やり直しをさせられました。つけるのに30分ほどかかったこともあります」と言う。

 土俵入りでは足も高く上げた。土俵一点を見つめ、肩の高さから塩をまいた。土俵上ではにらみも利かせた。「あのにらみにひるむ力士もいたはずだよ」と、若松親方(39=元大関朝潮)も言う。動きは毎日、全く変わらなかった。

 しかし強い横綱も幼少時代は弱虫だった。姉の小笠原佐登子さん(42=北海道福島町在住)が言う。「背はクラスでいつも頭一つは出て大きいのに、石をぶつけられても全然向かっていかなかった。代わりに私が悪ガキを追いかけまわしたほどです」。石をぶつけられる姿は今では全く想像がつかない。

※記録や表記は当時のもの