大関稀勢の里(30=田子ノ浦)が初優勝を果たした。

 ようやく稀(まれ)なる勢いに-。福井・永平寺の元貫首(かんす)から贈られた言葉「作稀勢(さきせ)」から「稀勢の里」と名付けた先代師匠の思いがかなった。中学卒業と同時に角界の門をたたいた「萩原少年」を一からつくり上げたのは、11年11月に大関昇進を見ずに急逝した先代の鳴戸親方(元横綱隆の里)だった。大器とほれ込み、指導した。稀勢の里はいくつもの教えが染み込んだ体で、その思いを体現した。

 先代との出会いは偶然だった。中学2年の終わり、相撲部屋を見学に行こうと、ネットで調べた。電話番号が書いてあったのは鳴戸と尾車だけ。当時、千葉県松戸市の鳴戸部屋は茨城の自宅から近く、訪れた。そこで先代に見初められた。

 両親は市販の菓子類やジュースを与えず、丈夫な体の下地をつくってくれた。そこに先代の教えが加わった。四つ相撲の禁止だった。「徹底的に突き押しを教えられた。なぜ相撲を取らせてもらえないのかと思ったこともあった。でも、受けて下がればけがにつながる。けが防止のためでした。亡くなる最後まで『この相撲を取れ』と。強い体ができたのも先代のおかげです」。2横綱1大関が休場、2大関が負け越した今場所、丈夫な体は際立った。

 先代は厳しかった。若い衆の門限は午後9時半。ただ、裏口の鍵だけは「閉めるな」と開けていた。門限破りも見つからなければよしとした。心の“逃げ道”を用意してくれた。松戸の部屋は2階の自宅と中でつながっていたが、必ず外階段を使った。ドアを開ける音、下りる音は大きく響く。稽古場に「行くぞ」との合図になった。「それが先代の優しさだったのかも」。

 06年に部屋旅行で中国を訪れた際、怒られて世界遺産を前に立たされた。そんな中、街中の買い物で100万円を25万円に値切った石があった。先代に「萩原、買え」と言われた。「その旅行で初めて声を掛けられたもんだから、うれしくて『はい!』と」。持ち帰ったその石は「羽織留めの石にしています」。限りある思い出の品だった。

 松戸にあった数々のトレーニング機器。先代も指導したトレーナーに必ず「親方は何キロでやっていました?」と尋ねた。先代が1つの指針になっていた。「自分は完成していなかった。だから良かった。先代に染められました」。スロー優勝は先代に匹敵。おしん横綱と呼ばれた系譜は、確かに引き継がれた。

 先代は弟子をめったに褒めなかった。ただ、たまに褒めるときは照れ隠しで、いつもこう切り出した。「本当は褒めたくないんだけど…」。今も空の上から、にこやかな表情で言っているに違いない。「本当は褒めたくないんだけど…よくやった」と。【今村健人】

 ◆第59代横綱隆の里 青森県浪岡町(現青森市)出身。15歳で入門。19歳の時に相撲界で「不治の病」とされた糖尿病を患うも、栄養学を独学で学び、徹底した節制で克服。30歳9カ月の高齢で横綱に昇進したことから当時大ヒットした、ヒロインが困苦に耐えるNHK朝の連続テレビ小説「おしん」の主人公になぞらえて「おしん横綱」と呼ばれた。