70歳で死去した輪島大士さんは、横綱北の湖と「輪湖(りんこ)時代」を築いた。対戦成績は輪島さんの23勝21敗。横綱を務めた73年から81年は北の湖の全盛期と重なり、2人の熱戦は昭和の相撲史を色濃く彩った。

輪島と北の湖。左の相四つでがっぷりと胸を合わせての力比べは、最高の見せ場だった。72年名古屋の初対戦から、13度目の対戦となった74年名古屋場所。輪島が1人横綱で大関北の湖を1差で追っていた。千秋楽に本割、優勝決定戦とも輪島が下手投げで連勝して逆転優勝した。場所後に北の湖が横綱に昇進して輪湖時代が始まった。

76、77年の12場所はすべて千秋楽結びで対戦して両者とも5度優勝。通算22場所あり、相星4度を含めて8度がともに優勝圏内で対戦。水入りが3度あった。決定戦を含めず輪島が通算23勝21敗だった。

後に日本相撲協会の理事長になった北の湖親方は生前「常に輪島さんとの一番を意識していた。絶対に負けられんぞと気合が入ったものだ」と明かしていた。

レスラー時代の全日本プロは国技館から締め出され、疎遠になっていた。それでも20年ほど前にサウナで会って以来、北の湖理事長から番付が送られるようになり、輪島さんは全て大事に保管していたという。09年初場所のNHK中継にゲストで23年ぶりで本場所観戦した。13年がんが判明した後、15年には雑誌の対談で両雄が再会した。「輪湖時代は私の誇り」と話していた。

15年11月に北の湖理事長が死去した際には、声が出ないために文書でコメントを寄せた。「お互いに病気と闘っていたが、先に逝かれて寂しい」「(北の湖は)運動神経が抜群だった。1度掛けた技は2度は通用せず、頭のいい力士だった」「俺はもう少し頑張る。よく頑張ったね、お疲れさまと言いたい」。あれから3年。輪湖はともに旅立った。