横綱稀勢の里(当時32=田子ノ浦)が引退を表明したのは、初場所4日目の1月16日だった。同場所は初日から3連敗。昨年秋場所千秋楽から、途中休場した同九州場所と3場所にわたり、横綱ワーストの8連敗(不戦敗除く)だった。午前8時40分ごろ、東京・江戸川区の部屋の前で師匠の田子ノ浦親方(元前頭隆の鶴)が「今日はもう出場しません。稀勢の里は引退します」と明言した。両国国技館の相撲教習所で引退会見が始まる、午後3時30分過ぎまで7時間余り。それまでの舞台裏を紹介する。

相撲の場合、会見は取材陣をとりまとめる幹事の新聞社が当該力士や師匠らと調整する。優勝一夜明けや昇進など祝賀会見は、相談もしやすい。だが勝ち続けて現役続行を望む相手に、引退会見の相談などできるわけもない。幹事はスポーツ紙と一般紙がペアで6年に1度回ってくる。昨年度は日刊スポーツと日本経済新聞が担当していた。

横綱史上最長8場所連続休場明けの昨年秋場所前から“もしもの場合”を想定し、相撲協会の一部も加わり、何度か会議した。同九州場所後に横綱審議委員会から、史上初めて「激励」が決議され、初場所出場は絶対、途中休場も許されなくなった。いよいよ待ったなし。同場所前の会議は具体的な話に及んでいた。

最大の難点は会見場だった。部屋の上がり座敷は手狭で、別の会見場が必要だった。千秋楽後の引退であれば国技館の大広間を使えるが、本場所中はちゃんこを食べられる場所となる。ホテルの宴会場を確保しようにも日付も、実際に使うかも未定。しかも企業の新年会シーズンで、予約はいっぱい。幹事両社は営業の部署などにも掛け合い、融通できるホテルを探した。

それでも苦戦し、協会側から両国国技館敷地内の教習所を提案された。ちょうどそのころ、週刊誌に、協会は稀勢の里の引退を想定して準備しているという記事が出た。だが協会関係者は「大きな出来事が起きるかもしれないのに、何もしない方がおかしい」と、意に介していない。2日目と9日目は、教習所もイベントで使用できなかったが、何とか回避した。

次の問題は会見が、師匠の引退発表翌日にずれ込む可能性があったことだ。年寄「荒磯」の襲名が、同日中に認められないかもしれない。そんな中、稀勢の里が国技館に向かって出発。会見できるのか、できるなら何時からなのか。混乱状態の中、とりあえず報道陣は教習所前に待機と、幹事から各社に一斉メールが送られたのが午後3時27分。その15分後には、稀勢の里は会見で涙を流していた。

会見は最後までドタバタした。用意した花束を“出役”のNHKアナウンサーに託そうとしたが、全員、教習所の長机の中央に陣取り、出られない状況。そうこうしているうちに、稀勢の里は引き揚げようとしていた。隠していた花束を走って取り、急いで引き留めた。「お疲れさまでした」と、予定外だったが記者が花束を渡すと「ありがとうございました」と、涙が残る力強い目で返された。

弟弟子の高安が婚約発表会見を開く前、稀勢の里から、いたずらっぽく「花束持って行こうかな」と言われた。大慌ての会見だったが「土俵人生において、一片の悔いもございません」の名言も出た。10カ月近く後に見せた、いたずらっぽい笑顔に、最低限の最後の舞台は用意できたのかと少し救われた。【高田文太】