日本相撲協会の7日の理事会で、現役引退及び年寄襲名が承認された元前頭豊響(36=境川)の山科親方の引退会見が9日、師匠の境川親方(元小結両国)同伴の元、都内でオンライン形式で行われた。

十両だった18年1月に不整脈を発症し、翌場所から幕下に陥落。関取復帰はかなわず、今年は1月の初場所から3場所連続で全休していた。この間は「正直、何度も引退を考えたけど、周りの人たち(の声)に(自分を)奮い立たせて頑張ろうと思っていた」と話し「まだ(引退したという)実感はわきません」と実直な性格そのままに言葉を運んだ。

05年初場所で初土俵。07年初場所で新十両昇進を果たし、同年名古屋場所では新入幕。最高位は翌08年九州場所の東前頭2枚目。三賞は敢闘賞を3回、受賞した。唯一の金星は12年夏場所7日目、白鵬から小手投げで奪った。思い出の一番は、やはりその金星。土俵下では、師匠の境川親方が審判を務めていた。「師匠が審判を務めていて、まさか金星を取れるとは思っていなかった」。涙で目を潤ます弟子の、その姿に境川親方も当時を振り返り「目と目が合った瞬間、グッときました。やっと金星を取ったかと。審判は平等に(両力士を)見る場なので(感情は抑え)部屋に帰って『良かったな』と声をかけた」と懐かしんだ。その日は、平幕の妙義龍が琴奨菊を、関脇の豪栄道が把瑠都を、それぞれ大関撃破を果たした部屋の仲間に勢いをもらって臨んだ結びの一番だった。

08年10月に、左目の網膜剥離を患い手術を受け11月の九州場所を休場した。膝や肩のケガや病気に見舞われたが「正直、(網膜剥離が)一番怖かった」という。それでも「押しは自分の身上。怖がらずに(その後も)頭から行った」とスタイルを貫いた。ついた代名詞が「平成の猛牛」。「ニックネームまでついて、ありがたく思います」と話し、師匠の境川親方も「素晴らしいニックネームがついた。(後進を指導する部屋付き)親方として、ぜひ『令和の猛牛』を育ててほしい」と期待した。

逸話もある。山口・響高で活躍し境川親方が勧誘のため実家を訪問。だが「親方にお世話になれば」という母の言葉に「だったら、お前が行けよ」と、むげな言葉を母に返した。その言葉に、境川親方が烈火のごとく怒り「親に向かって、そんな口をたたくやつはいらん!」と入門話をご破算にした。卒業後、造船所のアルバイトなどを経て2年後に再度、自分から九州場所の宿舎に足を運び頭を下げ、入門を懇願した。「高校卒業の時は縁がなかったと思ったけど、自分から(宿舎に)来た。20歳で覚悟を持って来たと思うから『やる以上は頑張れ』と言いました」と境川親方は振り返った。

「16年も相撲を取れる、丈夫な体に生んでいただいた母には、感謝の言葉しかありません。恩返ししたい気持ちでした」と涙声で言葉を詰まらせる山科親方。厳しい指導で知られる境川親方、その部屋に入門できたことを「境川部屋の力士として土俵に立てて本当に幸せでした。師匠に教わった押し一本を最後まで貫けて本当に良かった」と振り返り、指導者として「正々堂々と、真っすぐな気持ちの強い力士を育てたい」と抱負を語った。