今からちょうど50年前、「悲運の横綱」がこの世を去った。

1971年(昭46)10月11日、第51代横綱玉の海が急逝した。全勝優勝を飾った同年名古屋場所前に急性虫垂炎を発症。横綱の責任、そして大横綱大鵬の引退相撲を控えていたことから秋場所は薬で散らしながらの強行出場に踏み切った。

すべての務めを終えて入院し、手術した。退院予定は10月12日、その前日だった。午前7時30分に起床。洗面所で顔を洗った直後に心臓発作を起こした。最後の言葉は「胸が苦しい…」。懸命な心臓マッサージで一時は持ち直したが、次第に力は弱まった。午前11時30分、27歳8カ月の若さだった。

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没後50年の節目に、玉の海という横綱を紹介したい。その上で今回、横綱同時昇進を果たした盟友の北の富士勝昭(79=NHK相撲解説者)が「当時」を語ってくれた。

「もう50年もたったのか。今でも信じられんな。健康優良児だったし、長々と生きていくと思っていたからなぁ」

しみじみ思い起こした後に「(亡くなった時は)俺が死んだ方がよかったと思ったほどだ。『双葉山の再来か』と期待されて、まさにこれからという充実した時に亡くなった。彼は酒飲まないから。酒を飲む俺が先に逝くはずなのに…運命というのは不思議なもんだよ」

玉の海は59年春場所で初土俵を踏んだ。北の富士が約2年先輩だが、「部屋が近かったから」と出稽古での交流から厚い絆へとつながっていった。玉の海は「北さん」。北の富士は改名前の玉乃島から「シマちゃん」と呼んだ。

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「あいつが出世早くてねぇ」

61年-63年、ほぼ同じくしていた幕下時代が最も激しい稽古で高め合った。

「『すごいやつ』と聞いていたから、そんなにすごいのかと。実際に見たら体は小さいし、けんか四つ(北の富士は左四つ)で稽古場ではほぼ差し勝ったしね。どこがすごいんだ、たいしたことないじゃないかと思ったよ」

とは言いながら、妙にウマが合った。

「巡業では支度部屋でいつもしゃべってたね」

玉の海の特技はギターだった。ある横綱会で玉の海がギターを弾き、それに合わせて北の富士が美声を披露したこともあった。歌うは北の富士が大関時代に“歌手デビュー”した曲「ネオン無情」。その場にいた歴代横綱を驚かせたという。

亡くなる2カ月前。

71年8月の夏巡業終盤に虫垂炎を再発した玉の海が離脱した。先に日程を終えて帰京していた北の富士が、急きょ秋田・八郎潟巡業に向かう。そこで雲竜型の北の富士が玉の海の不知火型で土俵入りした。北の富士は「体ひとつ持っていけばよかったから」と振り返るが“友情の土俵入り”は人々の感動を生んだ。

もちろん、当時は「死ぬなんて思っていなかった」。

しかし、信じられない訃報が届く。

「驚いたというより、肉親が亡くなった時よりも泣いたな。人が死んで、あれだけ涙が出たのは生まれて初めてだった」

大きな支えを失い、「彼が死んでなかなかやる気が起きなかったな」

北の富士は玉の海の死後、約3年後に土俵を去った。

昨年の春場所前、玉の海が眠る愛知県に墓参りに行く予定だったが、新型コロナウイルス感染症の影響で断念せざるをえなかった。

「ライバルはな、いた方がいいよ」

没後50年。今も北の富士の心の中に玉の海は生きている。(敬称略)【実藤健一】

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◆玉の海正洋(たまのうみ・まさひろ) 本名・谷口正夫。1944年(昭19)2月5日、大阪市生まれ、愛知・蒲郡育ち。蒲郡中では柔道でならし、評判を聞いた関脇玉乃海がスカウト。59年春場所初土俵。63年秋場所新十両、64年春場所新入幕。66年9月に大関となり、68年夏場所で13勝を挙げて初優勝。70年初場所後に北の富士とともに横綱に昇進し、しこ名を「玉乃島」から「玉の海」に改める。71年10月11日、虫垂炎手術後に発生した右肺動脈幹血栓症により死去。優勝6回。幕内在位46場所で469勝221敗。3賞6回(殊勲4、敢闘2)。金星4個。得意は突っ張り、右四つ、上手投げ。血液型AB。177センチ、134キロ。

◆北の富士勝昭(きたのふじ・かつあき) 本名・竹沢(たけざわ)勝昭。1942年(昭17)3月28日、北海道旭川市出身。子どものころ、北海道の相撲巡業を見に行った際、横綱千代の山に声をかけられたことを機に相撲に興味を抱く。旭川の光陽中学を卒業後、出羽海部屋に入門。57年初場所初土俵。63年春場所新十両、64年初場所新入幕。66年秋場所で新大関。大関時代に分家独立を許さなかった出羽海部屋から独立した元千代の山の九重親方についた。67年春場所で初優勝。70年初場所後に玉乃島(のちの玉の海)との同時昇進で第52代横綱に。74年名古屋場所で引退。幕内通算592勝294敗62休、優勝10回。引退後は年寄・井筒→九重部屋を継承し千代の富士、北勝海の2横綱を育てる。その後は歯に衣(きぬ)着せぬ発言の相撲解説者として人気を博す。大のカレー好きが高じて監修した今年発売の「横綱北の富士カレー」も大人気。