大相撲初場所で3度目の優勝を果たした御嶽海が、新大関に昇進した。出身の長野県では、江戸時代に活躍した雷電以来227年ぶりの快挙。名門・出羽海部屋としては三重ノ海以来47年ぶりとなった。御嶽海とはどんな人間で、どんな力士なのか。「227年ぶり 信州大関御嶽海」と題し、3回にわたる連載で迫る。

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角界入りは頭になかった。東洋大4年に進級して早々、アマチュア相撲の強豪・和歌山県庁への就職が内定した。御嶽海本人や両親は一安心。幕下付け出しの資格を得られるまでの実績がなく、角界入りをするにしても、アマチュア相撲で資格を得てからだと考えていた。父春男さんは「相撲取りにさせようなんて、何言ってるの? ぐらいだった」と振り返る。

風向きが変わった。東洋大4年の11月に学生横綱に輝くと、12月にはアマチュア横綱に輝いた。2冠を果たして幕下10枚目格付け出しの資格を得ると、春男さんのもとへの電話が鳴りやまなかった。「朝5時から夜の11時半頃まで。『私はどこそこの部屋と知り合いなもので』と。あの時はすごかった」と勧誘の嵐だったという。

あまたある部屋から選んだ出羽海部屋。当時、部屋を継いだばかりだった出羽海親方(元前頭小城ノ花)の説得に心を揺さぶられた。「最近10年くらい幕内力士が出ていない。今は名門とは言えないけど再興させたいと思っている。ぜひとも力を貸して欲しい」。悩んだ末に角界入りを決意。15年2月に出羽海部屋に入門した。地元の長野・上松町から望める御嶽山と部屋の「海」を合わせた「御嶽海」のしこ名を師匠に付けてもらった。しこ名に恥じない悲願の大関昇進。出羽海部屋では三重ノ海以来47年ぶりと名門に光を届けた。

出羽海部屋ではのびのびと稽古に励んだ。兄弟子らにも恵まれ、番付を抜いて関取に上がってもみんながついてきてくれた。御嶽海は「出羽海部屋だったからこそ大関になれた。今の自分があると思っている。この部屋を選んでよかった」と振り返る。安定した生活が過ごせる公務員の道を捨て、勝負の世界に入って7年。ようやく1つの大きな結果を出した。【佐々木隆史】