私の米国留学先の東ミシガン大教育学部体育学科には、週に4コマ付属支援学校で実技の指導の実習があった。私の担当は、サリドマイドによる障がい児たちにマット運動と水泳指導。目からウロコの連続だった。

健常者からすれば簡単な前転や後転は、重度の障がい児にとっては困難な運動。必死になって練習する障がい児をサポート。失敗しても喜び、成功させると涙を流して喜ぶ。水泳には補助具があるため、全員が浮き、泳ぐことができる。目を輝かせて感激する障がい児たち。私は、体育やスポーツは、すべての児童に必要なのだと悟った。この体験は、私にとって貴重なものとなり、脳裏に深く焼きついた。

バルセロナ五輪の後、パラリンピックの開会式を見た。五輪と同じ感動と興奮が伝わってきた。キリスト教国だから、障がい者に対して親切で強く支援するのだと思っていたが、誤解だった。障がい者スポーツが普及していて、多くのファンを魅了していたのだ。

障がい者になりたくて障がいを持った人はいない。どんな障がいを持とうとも、夢を追って努力する人たち。日本の全国の支援学校へ体育とスポーツを得意とする先生を送り込み、障がい者スポーツの普及と発展に寄与し、希望と夢に燃える障がい児を増やしたい。私は留学中に体験した指導を忘れなかった。

日体大理事長に就任して、自民党の幹事長だった武部勤先生から、「網走市の高校を見てくれないか」との話。私は、日本初の私立大がもつ高等支援学校をつくろうと決意した。日体大生が、支援学校教員免許を取得するための実習校にすればいい。

案ずるより産むがやすし。北海道庁、網走市、そして日本財団が協力してくださった。名古屋にあるメイドー(株)も応援してくださり、今春、第1回の卒業生を送り出した。知的障がい者をオホーツクの大自然の中で、体育・スポーツ、芸術、農作業の3本柱で教育をする学校。日体大の犠牲的精神の発揮と体育学のパイオニアとしての矜恃(きょうじ)である。