1964年の東京五輪は、まさに革命だった。敗戦国日本が、みごとに復興した姿を世界に披露した。が、なぜ64年の五輪を開催できたのか、詳細を語る人は少ない。政府は世界銀行から借金をしてまで近代化を急ぎ、先進国の仲間入りを披露した。借金の返済は、平成2年で終わった。

「東京五輪招致の最大功労者は、米国在住の和田勇氏だ」、二階俊博自民党幹事長は、常々、私に語られていた。東京五輪は、日本にとっては革命に映る大事業であり、国も国民も燃えた。

和田氏は、米国へ戦前に移民として渡った。和歌山県御坊市の多くの住民が渡り、アメリカ村と呼ばれる地区が市内にある。和田氏は、苦労を重ねたがロサンゼルスでスーパーマーケット経営で成功する。戦前、米国への移民の日本人たちは「ジャップ」(日本人野郎)とさげすまれ、差別を受けたうえに迫害の屈辱、辛酸をなめたのだ。

和田氏は、マッカーサー連合国軍最高司令官に手紙を送り、日本の水泳選手の全米選手権への出場許可をとる。はたして、貨物船で渡米した古橋広之進、橋爪四郎らの日本選手が大活躍、米国民の日本人を見る目が変わった。特に米メディアは古橋選手を「フジヤマのトビウオ」と称賛した。日本人は、希望と勇気を得る。移民の日本人は誇りを取りもどし、敗戦のショックから立ち直った。

スポーツ交流は、友好親善に役立つと学んだ和田氏は、夫人同伴で各国の国際オリンピック委員会(IOC)委員を訪ね、東京開催のために私費で行脚した。戦後それほどたっていなかったのにもかかわらず。母国日本の復興を信じた和田氏は、積極的に行動したのだ。政府もあらゆるチャンネルを用いて五輪招致に全力投球したが、和田氏のような民間人もいたのだ。

2001年、和田氏がご逝去された翌日、私は衆議院の文教委員会で質問に立ち政府の低評価を見直すよう検討すべしとただした。野党の私の質問に対し、政府は動かなかった。悔しい思いをしたが、和田氏は天国で喜んでくれたに違いない。