【カンヌ(フランス)24日=木下淳】無名の日本人主演俳優が静かにカンヌデビューを飾った。監督週間部門に招待された仏映画「ムッシュ・モリモト」の森本健一さん(68)だ。本職は画家で、主演どころか演技自体が初めてだったため、全く話題にならなかった。定年退職後の00年に画家を目指して渡仏。自由気ままに老後を楽しむ姿が、そのまま映画の題材になった。

 ノガ・ヒルトンホテルの地下シアター・クロワゼットで行われた公式上映。ベレー帽に「合成樹脂で固めている」という立派なあごひげ、タキシードに扇子という姿の男が登壇した。フランス作品のため通訳が入らないのに日本語で「皆さん、こんばんは~」。反応がないまま上映に突入したが、幕が引いて一変。ほぼ満席の客席から拍手が送られ、森本さんは誇らしげに扇子を振って応えた。

 今年のカンヌ映画祭に登場した伊勢谷友介、木村佳乃、香川照之、小泉今日子の陰に完全に隠れていた。日本作品でも俳優でもなかったからだ。画家の森本さんは熊本中央郵便局で40年間勤務し、定年退職後の00年、妻を自宅に残して単身渡仏した。「趣味の絵画を本格的に勉強してアーティストになりたかった。家族も好き勝手やらせてくれましたし」。パリに移って9年目。路上で絵を描き、画廊をめぐっている。

 出演を持ち掛けられたのは昨年6月。先の舞台あいさつのスタイルが普段着という森本さんを路上で見たフランス人のニコラ・ソルナガ監督(36)から興味を持たれたことが始まりだった。「パリに何年も住んだけどフランス語は話せない。絵を描いてると人と話さないから」という森本さんとは会話が成立しなかったが、その後、現地の日本人ネットワークを介して監督と話す機会があった。気ままなセカンドライフを紹介すると余計に面白がられ、作品の題材になったという。

 物語は家賃を滞納してパリのアパートを追い出された画家「モリモト」が、放浪先で出会うフランスの人々に助けられながら生きる姿を描く。セリフは日本語と片言のフランス語。森本さんは「芝居なんて経験したことないし、戸惑ってばかり。熊本に残した家族もキョトンとしてた」。撮入は昨年7月。慣れない演技に1シーン平均10回の撮り直しを要求された。

 撮影は今年4月まで断続的に行われ、やっと終わったと思ったら映画祭に招かれていた。「まさか自分がカンヌに来るなんて…。驚くしかないですね」。俳優転身の可能性を尋ねると「ないです、ないです。80歳までパリに住む予定ですけど、演技は最初で最後でしょう」と笑った。現時点で主演作の日本公開予定はない。カンヌを離れた後は一介の画家に戻るつもりだ。