暴漢に襲われた妻は、被害者となったことを恥じ、警察に届け出ようとする夫を止める。怒りの収まらない夫は独り犯人捜しに乗り出すが、さらなる悲劇をもたらし、夫婦間には決定的な亀裂が生じる。

 レイプ事件に端を発したドラマはどこの国でもありがちな成り行きとなるが、イランのアスガー・ファルハディ監督の手にかかると、息をのむ傑作になる。

 この「セールスマン」(10日公開)で2度目のアカデミー外国語映画賞に輝いた他、前2作の「別離」(11年)と「ある過去の行方」(13年)はフランスで大ヒットとなり、その手腕は世界的に評価されている。

 5年ぶりに母国で撮影したこの映画は、首都テヘランの今を背景に、名作舞台「セールスマンの死」を劇中劇として織り込んだ。犯人捜しのサスペンス味が重層的な構成でいっそう引き立っている。

 夫は国語教師、夫妻で小劇団に所属していてそろって俳優という設定だ。2人の住むアパートは倒壊の危機に見舞われ、退去を余儀なくされるのだが、原因は隣接する土地の建設工事である。テヘランの急速でやや乱暴な開発が浮き彫りになる。

 夫妻の仮住まいとなる新たなアパートには前の住人の家財道具が残されている。付近の住民が「いかがわしい職業だった」とうわさする女性のもので、妻のレイプ事件は前の住人の因縁から起こる。

 新居周辺にはテヘランの「下町人情」のようなものが巧みに織り込まれていて、インテリ夫妻が翻弄(ほんろう)される図式がじわっと浮かび上がる。

 夫妻が稽古にいそしんでいる舞台がアーサー・ミラーの「セールスマンの死」で、タイトルはここから来ているようだ。劇中劇の内容がべたに重なるわけではないが、逃れられない運命のようなものが本筋の行方を示唆して、ほどよく絡み合っている。

 遺留品から迫る夫の犯人捜しも一筋縄ではいかない仕掛けがほどこしてあって、テンポがいい。幾重のもの要素が巧みに織り上げられ、嫌でもファルハディ監督の力量を実感させられる。

 夫役のシャハブ・ホセイニはテヘラン大学で心理学を専攻した後、テレビやラジオの司会で実績を残した人で、自然と知的な匂いがにじみ出る。妻役のタフネ・アリドゥスティはこれが4本目のファルハディ作品で、ミューズのような存在。奥まった目が悲哀を映し、隙のないイラン美女だ。

 劇中劇の老け役メークも加え、2人の演技も作品の複雑な構造にしっかりフィットしている。【相原斎】