ゴォーと空で大きな音がした。見上げると銀色の飛行機が、旋回しながら大きな輪を描いている。缶蹴りは中断、急いで浅草寺の階段を駆け上がり渡り廊下から空を見上げた。

「あ、オリンピックだ・・・」

昭和39年10月10日。浅草公園の空は、久しぶり晴れ渡る青空だった。そこには赤青白黄色と5色の大きな輪が描かれている。頭上には青空に溶けるようなブルーの輪。僕らはオリンピックが始まったことを知った。

(絵:中本賢)
(絵:中本賢)

■オリンピック

アジアで初めて開催されるオリンピック。日本中で大きな話題になっている。でも、オリンピックはテレビを独占する大人世代の関心事。僕ら子供たちが待ち遠しかったわけじゃない。とにかく家に居るのが、死ぬほどつまらなかった。店が忙しくなれば手伝わされるし、暇なら鼻クソほじる父ちゃんの機嫌をうかがわなければならない。

ちなみに、五区で親がサラリーマンって友達は1人も居なかった。そもそも人を雇えるような会社がない。家業は大抵が職人か商売屋。したがって子供の関心事は、一日中家にいる「理不尽ですぐ殴る」親父(おやじ)と、いかに距離を取り無事に過ごすか・・・この1点に絞られていた。

学校が終われば、家から逃げるように飛び出し、日が暮れ殴られる寸前までは帰らない。ぎりぎりに戻っては、ビクビク様子をうかがいながら家に入った。

したがって、オリンピック期間中は非常に楽しい。大人たちの目が回らず解放されるからだ。連日徒党を組んで伸び伸びと遊びまくった。


■子供の仕事

我が家は、昭和30年代まで「おみやげ屋」だった。店は二天門にあったが、物心つく前に浅草寺から立ち退かされた。跡地には「三社苑」という大きな会館が立っている。まぁ、三社様で式を挙げ、披露宴は隣の三社苑で・・・みたいなコトなのだろう。

半強制的に店を閉めさせられたのに、その後親父が怒り狂った・・・みたいな話は聞いたことがない。斜陽化する浅草の中で、おおむね「シメシメ」って思っていたに違いない。

店を閉めてからは新しい商売を始めている。当時、観光地の土産屋では必須だった袋詰めの「みかん」や「りんご」。それに高級品だった「バナナ」。いずれも生ものだ。どの店もこの扱い難い売り物にはホトホト困っていた。そこに目を付けた。

朝早く神田で果物を仕入れ、袋詰めしてその日の内に出荷する。これなら店が無くても商売ができる。

転業は親の都合だが、もちろん問答無用で子供は重要な労働力とみなされた。兄弟は6人。特に上の方の兄さん姉さんたちはよく手伝いをさせられていた。幸い僕は末っ子。もみ殻だらけの兄さん姉さんの周りで、遊んでいた記憶しかない。

袋詰めが終わると、今度は配達。これも子供の仕事だった。配達先はいずれも境内のお土産屋さんだから、リヤカーに載せて回る。もちろん、僕も荷物と一緒に乗せてもらった。配達に出れば近くに怖い親父が居なくなるし、兄弟だけの配達はとても楽しい。バレない程度に寄り道して遊んだりもする。それに配達先では、おじちゃんおばちゃんたちが「いつも偉いねぇ」と、何もしてない僕の頭をなで「オヤツ」をくれたりもする。だから、リヤカー運搬は楽しくて待ち遠しかった・・・多分ぼくだけ。


■力道山が負けると、家の中が荒れる

高度経済成長期前夜。オリンピックはともかく、そもそも浅草の大人にスポーツを楽しむ文化なんてまるで無い。スポーツ観戦は「楽しむ」のではなく、一緒に「戦う」ためのものだった。しかし、戦われると困るのが子供たち。

中でも、最も恐れていたのが金曜日の夜。「三菱ダイヤモンド・アワー」というプロレス中継。お決まりの内容で、力道山が外人レスラーを空手チョップでバッタバッタとなぎ倒す。力道山は、当時すでに国民的アイドルだった。鉄人「ルー・テーズ」との試合では、視聴率87%を記録。戦争に負けた国の相手を、伝家の宝刀「空手チョップ」でなぎ倒す。戦中を知る人たちにとって、胸のすくような快感だったに違いない。


(絵:中本賢)
(絵:中本賢)

もちろん我が家の父ちゃんも、ほぼ力道山とタッグを組んで参戦していた。親父はゴリラのような大男だったから、すでに周りは退避し家族は誰も居ない。ゴングが鳴れば心はすでにリング上。誰も居ない帳場でドッタンバッタン。今で言うテレワーク式プロレスが始まる。その激しさは地響きのようなうなり声と、床や壁をたたく音で十分理解できた。

さて、問題は終了後にある。結果により状況が変わるからだ。子供らは気が気でない。空手チョップが思いの通りにさく裂していれば、その夜は上機嫌。よもやの空振りなら、いらぬ詮索が始まり不条理に殴られる危険があった。

この場合、おふくろはそれらの状況を完璧に無視する。経験上なにをやっても収まらないことを知っているからだ。ただ、試合が接戦となり我を失った親父が、こたつの足を折ったり壁に穴を開けるなど器物破損に至ると、突然切れた。切れてクマみたいな大男に立ち向かい、殴るし蹴るし物を投げつけるわ・・・の、大げんかになった。こうなると、収集が付かず困った親父が、突如機嫌を取るように明るく振る舞ったりするもんだから結構だらしない。

下町の子供なら誰もが知っている。家で一番強いのは「母ちゃん」。やさしくておっかなくて・・・だから、皆母ちゃんが好きなんだと思う。

家庭にとどまらず、当時のスポーツ観戦は騒動をも巻き起こしていた。夏の暑い日。ナイターで巨人が負けたとする。今となっては信じられないだろうが、下町では暴動が起きた。近くの交番が腹いせに襲撃される。当時は新聞で毎年紹介されていた。・・・下町の風物詩は物騒でいけない。

いずれにしても、やり過ぎは困ったものだが、やっぱり一緒に戦えないスポーツは面白くない。まだテレビに扉と鍵が付いていた時代。スポーツは子供たちにとって、とても厄介な娯楽だった。

ちなみに、1954年12月。昭和の巌流島と言われた「力道山VS木村政彦」のテレビ中継で、国内の老人2人が脳いっ血で亡くなっているが、そのうちの1人は家の親族だったことを付け加えておく。


※次回の掲載は1月18日です。お楽しみに。