心に残る名曲やヒット曲の誕生秘話や知られざるエピソードを紹介する連載「歌っていいな」第3回は、サザンオールスターズ「いとしのエリー」です。せつないバラードは、のちに多彩な曲を世に送り出すことになるサザンの分岐点でした。発売に至る経緯などが明かされます。※この記事は96年12月18日付の日刊スポーツに掲載されました。一部、加筆修正しました。

◆ ◆ ◆ ◆ ◆ ◆

サザンオールスターズは今も、日本のロックシーンの第一線に立ち続けている。この長寿のきっかけは、1979年(昭54)3月発売の3枚目シングルでバラードの名曲「いとしのエリー」のヒットにある。

桑田佳祐らメンバーが青学大在学中だった77年夏、ヤマハ主催の「イースト・ウエスト・アマチュアコンテスト」に出場した。陽気なダンスナンバーで、ちょっぴりエッチな詞が印象的な「女呼んでブギ」(女呼んで もんで 抱いて いい気持ち……)と、しっとりとしたバラード「今宵あなたに」の2曲を歌った。ラッツ&スターやカシオペアも参加した中で、注目された。

この時、サザンをスカウトしてデビューに導いたうちの1人、高垣健さん(96年当時はビクター・エンターテインメント制作室長)は語る。「歌った2曲の対比、このグループの持つ二面性が面白くて、声を掛けた。桑田君は大学2年で、声を掛けたら、しきりに照れていましたよ」。

デビューが決まり、グループの方向性は「陽気さ」が選択された。デビュー曲は「勝手にシンドバッド」。独特の巻き舌歌唱と、短パン姿の熱唱が話題をさらった。第2弾シングル「気分しだいで責めないで」や、初アルバム「熱い胸さわぎ」も同様のパターンで、パワフル、コミカル、ちょっぴりエッチなサウンドがサザン色となった。メンバーの出身地湘南もキャッチコピーとなった。

しかし桑田は、その方向性に必ずしも満足してはいなかった。桑田の柱はビートルズ、エリック・クラプトン、ビーチボーイズ、そして黒人音楽。中でもブルース、ゴスペルの世界を聴き込んでいた。

セカンドアルバム「10ナンバーズ・からっと」のレコーディングの際、桑田のレジスタンスが起きた。突然「こういう曲を思いついた」と即興でギターを弾き、スタッフに聴かせた。完全な詞はなかったが、「エリー・マイ・ラブ……」と結ぶ、それはのちの「いとしのエリー」の原曲だった。高垣さんは「こういう曲をやりたい、というスタッフへの強いアピールと感じた。それは、桑田君と彼らが持つ二面性のもう一方だった」と語る。

「いとしのエリー」が3枚目のシングル候補となると、激しい議論となった。「方向性が定着してきた時期に、バラードは時期尚早だ」と、高垣さんを始め、レコード会社側は猛反対した。しかし、サザンが所属するプロダクション「アミューズ」の大里洋吉さん(当時社長)が「売ろうではなく、冒険してみよう」と主張し、桑田の熱い思いが実現することになった。

結果は当初厳しかった。陽気さを期待するファンには見向きもされず、すぐに4枚目のシングル「思い過ごしも恋のうち」が準備された。しかし、じわじわとこの曲の良さが浸透し、発売から4カ月後の夏、ついに大ブレークした。このバラードで、大学サークルの延長線上でしかないバンドというイメージを払拭(ふっしょく)。さらに桑田はこの曲で音楽的に高い評価を得て、さまざまなミュージシャンから認められていった。

「いとしのエリー」は、桑田が敬愛するエリック・クラプトンと、実姉エリ子さんをイメージしているといわれる。エリ子さんはビートルズの熱狂的なファンで、桑田が音楽に関し、最初に身近で影響を受けた人だった。

桑田の音楽の原点ともいえる2人の名に由来する曲を契機に、サザンオールスターズは二面性を見事に使いこなし、独特のスタイルを持つバンドとして、揺るぎない地位を築いていった。【特別取材班】


※連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信します。