名曲やヒット曲の秘話を紹介する連載「歌っていいな」第17回は、73年に大ヒットした南こうせつとかぐや姫の「神田川」です。時代背景に寄り添ったドラマ性あふれる歌詞と、南こうせつの優しい歌声が見事に融合し、今もフォークソングの代表曲として多くの人に愛されています。作詞を手掛けた喜多條忠(きたじょう・まこと)さんが曲誕生にまつわる秘話を明かします。

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神田川にかかる小滝橋(東京・新宿区)を歩いている時、放送作家をへて作詞家となった喜多條忠さん(当時26)は1枚の看板に目を奪われた。「川をきれいにしましょう 東京都」。神田川は当時、流れもよどむ汚い川だった。

数時間前に依頼を受けた南こうせつからの電話を思い出した。「今日が締め切りなんです。すいませんが1曲書いてくれませんかね」。学生時代の甘酸っぱい記憶が、彼女のアパートからよくゴミを神田川に投げ捨てた思い出とともに、喜多條さんの中で、走馬灯のようによみがえってきた。

時は、少しさかのぼる。喜多條さんは、早大生だった。学園紛争の時代。血なまぐさい闘争の真っただ中から帰ると、「お帰りなさい。お疲れさま。今日も大変だったわね」の声。台所から漂ってくるカレーライスのにおいが香ばしい。喜多條さんは、そのギャップの大きさに言葉を失っていた。温かい声をかけてくれたのは、自著「神田川」でも触れている池間みち子さん。同棲(どうせい)相手だった。神田川に面したみち子さんの3畳一間の下宿が、2人だけの時間が流れる空間だった。

だがこの時に感じたギャップが、のちに作られる「神田川」に大きな影響を与えた。「若かったあのころ、何も恐くなかった」で終わるはずだった歌詞に「ただあなたの優しさが恐かった」のワンフレーズが付け加えられた。

1960年代後半、喜多條さんの学生時代、キャンパスは学費値上げへの反対闘争の真っただ中だった。「人形劇のサークルをやってまして。気が向いた時にデモや集会に参加する毎日でした」。みち子さんとの時間が存在しながらも、いやおうなしに運動は激化していった。「闘争に参加すれば、ヘルメットをかぶっていても、殴られれば割れた。催涙ガスでびしょ濡れになった。でも覚悟さえ決めれば怖くはなかった。それより、今いるところが嫌だった」。

そんな喜多條さんをいつも迎えてくれたのが、みち子さんだった。「デモから帰ったら、そこには完全な日常生活を送っている彼女がいた。優しさが敵なんだ。越えられないけれど、越えなきゃいけないと思った。優しい言葉をかけられると、日常的な優しさに包まれると、自分を包んでくれる女に安らいでしまう。それこそ『日常性への埋没』じゃないか。安らいでしまう自分が一番怖かった」。

歌詞が長いため「若かった-」で終わるつもりだったが、神田川の流れとともに思い出されてくる光景が脳裏に浮かんできた。そして「ただあなたの-」のワンフレーズも自然と口ずさんでいた。

「神田川」は確かに、南こうせつとかぐや姫を一躍スターダムに押し上げた曲だったが、収録されたアルバム「かぐや姫さあど」からのシングルカットは「僕の胸でおやすみ」だった。「ちょうど漫画で同棲時代というのがはやっていたんです。確か、こうせつが出したくないって言ったんじゃないかな。一緒にされるのが嫌だったんでしょう」。当時、担当ディレクターだった佐藤継雄さんは振り返る。

だが、大ヒットへの兆しはそんな「わがまま」を打ち砕いてしまった。深夜放送で曲がかけられるや、反響はすさまじかった。「これはやばい」(佐藤さん)と「神田川」は、すぐさまシングルカットされることになった。

当時20代だった南と伊勢正三、山田パンダのかぐや姫の「3万枚売ろうじゃないか」という控えめな目標が一転、フォーク系の金字塔となる100万枚突破になったのだった。【特別取材班】


※この記事は96年11月30日付の日刊スポーツに掲載されたものです。一部、加筆修正しました。連載「歌っていいな」は毎週日曜日に配信しています。