地下鉄サリン事件が、20日に20年の節目を迎える。事件当日、情報の前線基地になっていた上野の営団地下鉄本社(現・東京メトロ)にいた。以来、強制捜査、教祖麻原彰晃逮捕、一連のオウム裁判ラッシュまで、あらゆる現場を取材した。事件を振り返る特集記事や検証番組はさまざまなメディアが手掛けているので、スポーツ紙的な視点から、オウム取材現場のよもやま話をいくつか書き留めたい。

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【張り込み装備、リッチだったNHK】

 教団幹部の出入りや会見がある南青山の東京総本部前は、信者が退去するまでの約1年間にわたり、マスコミの張り込み拠点となっていた。長引く張り込み現場では、いつの間にか各社の定位置のような秩序が生まれるもので、たまたまニッカンの隣はNHKだった。脚立1個で場所とりしているニッカンら各社と違い、NHKはパラソルと数個の白いいすでビーチサイドみたいな豪華版。真夏は大きめのクーラーボックスも持ち込み、大量のカチ割り氷は各社の羨望(せんぼう)の的だった。氷を置いたまま撤収してしまうこともあるお大尽ぶりで、「受信料が溶けていく」と話題に。

【張り込みトイレ問題、マスコミの恩人は「島根イン」】

 張り込み現場で何よりも大事なトイレ問題。各社、当初は買い物拠点だった近くのローソンをお借りしていたが、「何も買わない時は気が引ける」のが悩みでもあった。1個しかないトイレは常に混雑し、テレビ局の女性記者がドアを開けられて悲鳴をあげたという気の毒な話もあった。そんな時、総本部から100メートルくらい離れたところにニッカンが「島根イン青山」を発見。島根県民のための宿泊施設で、エントランスを入ってすぐトイレがある好条件だった。一般紙と掛け合ったところ、「島根イン」は快く了承してくれて、最終的に警察官も使用していた。島根の人の優しさに、この場を借りてお礼を言いたい。

【逃げ出す記者も…総本部のにおいは強烈】

 特に予告もなく行われる教団の会見は、総本部の上階で行われることが多かった。信者の生活スペースであるため土足厳禁で、会見の時はくつを脱いで入る。密閉された部屋には甘いものが傷んだようなにおいが充満しており、夏場はこのにおいと、報道陣の足のにおいのごちゃまぜで、我慢できずに退出する人もいた。当時、教団広報を務めていた上祐氏も言っていたが、信者は基本的に風呂に入らないので生活臭も独特なのだという。大量のゴキブリが捕獲される“事件”もあった。

【甘すぎる「サットヴァ・レモン」】

 教団が上九一色村の施設を公開した際、取材に行った男性記者が信者から教団ドリンク「サットヴァ・レモン」の袋をもらってきた。麻原彰晃被告のエネルギーを電磁波にして混入したスポーツドリンク、という触れ込みで91年から教団に登場した粉末ジュースで、信者が日常的に飲んでいた。オウム取材班で飲んでみたが、何が入っているのか、甘すぎて飲めたものではなかった。また、幹部の取材場所として活用されていた南青山総本部地下の喫茶スペースで出してくれるお茶もマスコミ各社に有名だった。真っ黒な液体で、紅茶っぽい味がする。おかわりした某紙の猛者が話題になった。

【刺殺犯と名刺交換しようとした】

 95年4月23日午後、東京総本部前。村井秀夫幹部が帰ってくるとの情報があり、200人くらいの報道陣が玄関前をぐるりと囲み、ごった返していた。風の強い小雨で、多くのマスコミが傘をさしていたが、輪の最前列に、傘もささず、玄関をじっと見ている男がいた。見ない顔だがどこの熱心な記者だろうと思い、名刺交換させてもらおうと思ったら張り込みの交代要員が来た。現場を後にした直後、村井幹部が帰ってきて、あの男に刺されて命を失った。もしあの時、名刺交換で声を掛けていたら事件はどうなっていただろう。今でも考える。

【組長を直撃してどやされ、東スポに載る】

 村井幹部を殺害した被告の公判が東京地裁であり、被告から「若頭の指示だった」と名指しされた暴力団の組長らが傍聴に訪れた(若頭はその後無罪)。閉廷後、見解を聞こうと組長に声をかけると、若い衆に「何だお前ーー!!」と取り囲まれて驚いた。組長が手で合図すると彼らは散り、組の関与を否定するコメントをくれた。さらに質問しようとすると、再び組長が手で合図し、若い衆が一斉に「終わりだ、どけー!」。この一部始終が「女性記者どやされる」の見出しで東スポ芸能面のトップ記事に。人の取材にタダ乗りし、きちんと独自性を発揮してくる東スポ精神は嫌いではない。

【枝からぶらさがる臨時電話】

 当時の取材で苦労したひとつは、携帯電話の圏外地域がまだ多くあったこと。関連現場となった長野県大町市の林もそのひとつ。公衆電話まで徒歩30分もあり、報道各社はみんな林の中に臨時電話(臨電)を引いていた。NTTから指定された日刊スポーツの臨電設置場所は「現場入り口から黒部ダムの方向へ50メートル進んだ杉の木」。現場に行った男性記者によると、電話の入ったビニール袋が本当に枝からぶら下がっていたという。杉の木に電話を取り付けられること自体が驚きだが、NTTの工事職員は「申し込みがあればどこでも行く」。報道各社で計15個くらいの臨電が枝からぶら下がっていた。ちなみに、山梨県上九一色村の教団施設も圏外。公衆電話は歩いて30分の農協しかなかった。

【初めて職質を受ける】

 強制捜査の直後、法務局で教団施設の登記を調べていたところ、男性2人組がこちらを見ていた。同じ地図を見たいのかと思い「お先にどうぞ」と譲ると「後でいいです」。先に済ませて建物を出ると再び彼らがやってきて、警察手帳を提示し「何を調べていたんですか」と職務質問されて驚いた。社員証を見せて取材意図を説明するとすぐに済み、流れで逆取材したら去られてしまった。こんなところにまで捜査員を配置している当時のオウム捜査の徹底ぶりと、現場警察官の熱心な仕事ぶりを目の当たりにし、感動したというか、圧倒された。

【メディアの垣根が吹っ飛んだ麻原初公判】

 96年4月24日、48席の傍聴席に1万2292人が並んだ世紀の初公判に運良く入ることができた。ハイライトである本人の意見陳述は「つまりカルナ」「つまりウペクシャー」など、弁護団ですら理解できない専門用語ばかり。メモが追いつかず、ペンを持つ手が震えた。公判が終わると、どの記者も頭真っ白な様子。一般紙、スポーツ紙、雑誌記者など、あらゆる身分の記者たちが廊下で輪になって「あのくだり、誰か分かりますか」「メモできた人いますか」となりふり構わぬ”読み合わせ”。結局、誰もよく分からず、裁判所の速記者が起こした全文の到着を待つしかなかった。

【おじいちゃん法廷画家、傍聴席でまさかの刃物】

 幹部被告の裁判で、静かな法廷に「シュッ、シュッ」という音。傍聴席にいた年配の法廷画家が、ヒザの上にティッシュを広げて、小刀で鉛筆をけずっていた。法廷に刃物は厳禁。オウム裁判では金属探知とボディーチェックによる厳重な持ち物検査が行われ、時にはボールペンを分解されてチェックされることもあっただけに、まさかののどかな光景に傍聴席が苦笑い。老画家の”筆箱”が、たくさんの鉛筆と小刀を輪ゴムでまとめただけの無警戒スタイルだったため、通れてしまったようだ。もちろん老画家に悪気はなく、血相を変えた刑務官によって丁重に退出させられた。

【11ページ体制、スポーツ紙の一面からプロ野球が消えた】

 一連のオウム事件は、教祖以下、主要人物だけでも30人くらいいた。サリン事件の仕組み、連日誰かが逮捕、荒唐無稽な教義、幹部のワイドショー出演などネタが山ほどあり、新聞の一面はどこの社もオウム。ニッカンも連日、最大11ページ体制で報じていた。地下鉄サリン事件の3月から、6月末までにプロ野球が一面を飾ったのは、「開幕戦」「ドジャース野茂英雄完封デビュー」「中日高木監督辞意」など6回のみ。ほかはすべてオウム関連だった。

【地下鉄サリン当日、第一報は「爆発物」】

 地下鉄サリン事件当日、情報の前線基地となったのが上野の営団地下鉄(現・東京メトロ)本社だった。まだ動いていた銀座線で駆け付けると、1階ロビーに即席のプレスエリアができていた。まだウインドウズ95がないアナログ時代で、続々と配られる資料は営団のオフィシャル用紙にすべて手書き。今も手元にあるが、まちまちな筆跡が明らかに急いでいて、職員が手分けして書いている緊迫感がにじむ。配られた「第1号」資料は午前10時40分付。「本日8゜14築地駅に停車中の北千住駅発中目黒行A720S列車内で爆発物が破裂したのをはじめ、」とあり、まだサリンではなく「爆発物」とされていたことが分かる。

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 日刊スポーツは最も大きな被害が出た日比谷線築地駅にあり、社に戻ると、「A720S列車」に乗っていた複数の社員が何人かいて、体調不良を訴えていた。隣の聖路加病院は、搬送された人たちがロビーや廊下にあふれ、必死で救命する医師や看護師で野戦病院のようになっていた。本紙は「救え命を」の大見出しでその奮闘を伝えている。聖路加病院が紙面を壁に張り、励みにしてくれたというのが救いだった。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/芸能記者コラム「梅ちゃんねる」)