オウム真理教教祖、麻原彰晃死刑囚(63=本名・松本智津夫)の刑が6日、執行された。95年5月の逮捕から23年。地下鉄サリン事件など一連のオウム事件の詳細を、教団トップが語らないまま幕となった。一連のオウム事件を取材し、今も鮮明に記憶に残るのは、犯罪史上類を見ない凄惨(せいさん)な事件の数々のいびつさと、“あの日”の大混乱だ。地下鉄サリン事件当日と、前代未聞の初公判を振り返ってみた。

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 ◆緊迫感にじむ営団地下鉄の手書き資料

 地下鉄サリン事件当日、情報の前線基地となったのが、上野の営団地下鉄(現東京メトロ)本社だった。動いていた銀座線で駆け付けると、ロビーの一角に即席の取材エリアができていて、広報スタッフが続々と入る情報を必死に紙にまとめて配っていた。

 まだウインドウズ95がないアナログ時代で、「帝都高速度交通営団」と印刷されたオフィシャル用紙に、すべて手書き。読み返すと、どれも筆跡がまちまちで、営団職員が数人で手分けして書いているのが分かる。どれもうまい字だが、明らかに急いで書いていて、当時の緊迫感が伝わってくる。

 午前9時半に非常対策本部が設置され、「第1号」のナンバリングで配られたプリントは午前10時40分付。「本日8゜14築地駅に停車中の北千住駅発~中目黒行A720S列車内で爆発物が破裂したのをはじめ、」とあり、まだサリンではなく「爆発物」とされていたことが分かる。ほかに、異臭情報や負傷者数リストなど。「第2号」のプリントは死亡者2名の氏名と搬送病院名、「第3号」は千代田線と丸ノ内線の折り返し運転のお知らせだ。

 広報レクや営団総裁の会見がめまぐるしく行われ、メモる私も、配布資料の裏に直接メモしている。「安ぜんゆそうのしめいがある」など、ひらがなばかりで、かなりあせっているのが分かる。芸能担当から社会面担当に配置換えになった初日にこの事件が起こり、とんでもない重大事件を取材しているという自覚に身がすくんだ。

 日刊スポーツは最も大きな被害が出た日比谷線築地駅近くにあり、社に戻ると、「A720S列車」に乗っていた社員が何人もいて、「めまい」や「視界の異変」を訴えていた。隣の聖路加病院は、搬送された人たちがロビーや廊下にあふれ、必死に救命活動にあたる医師や看護師で野戦病院のようになっていた。本紙は「救え命を」の大見出しでその奮闘を伝えている。聖路加病院が紙面を壁に張り、スタッフたちの励みにしてくれていたというのが救いだった。

 ◆ペンを持つ手が震えた初公判

 96年4月24日、48席の傍聴席に1万2292人が並んだ初公判に運良く入ることができた。弟子の多くがそれぞれの法廷で涙で贖罪(しょくざい)を語る中、当時の麻原被告は口を開けて居眠り。あまりの光景に弁護団がペンでつついて「大丈夫か」と起こすほどだった。体中をかき、洗っていない頭をボリボリ。フケがバラバラと落ち、思わず両脇の刑務官ものけぞった。

 意見陳述では「つまりカルナ」「つまりウペクシャー」など、弁護団ですら理解できない内容。聞き慣れない宗教用語ばかりでメモが追いつかず、ペンを持つ手が震えた。公判が終わると、どの記者も頭真っ白な様子であせっている。早版の締め切り時間を考えれば、一般紙、スポーツ紙の垣根などなくなり、廊下で「あのくだり、誰か分かりますか」「メモできた人いますか」と、なりふり構わぬ“読み合わせ”の輪ができた。結局、誰もよく分からず、裁判所の速記者が起こした全文を待つしかなかった。

 今回、同時に刑が執行された6人の中では、井上嘉浩死刑囚(48)の公判を多く傍聴した。教団裏部隊のトップだったが、最も早い段階で謝罪の意志を明確にした幹部の1人。公判では、まるで檄文(げきぶん)のような大声と直立姿勢で反省の意見陳述書を読み上げ、「裁判で松本智津夫氏に立ち向かい、真実を明らかにすることで償いたい」と叫んだ。

 周辺取材をしても、勤勉でまじめな人物像しか伝わってこない。きゃしゃな体格と、起訴された凶悪事件の数々とのギャップに途方に暮れたのを覚えている。彼が手にしていたミッキーマウスのタオルが、いかにも当時25歳という若さを物語っていた。

 こういう若者たちが、なぜこれだけの大事件に次々とかかわっていったのか。23年もかかった末に、教祖から背景が語られることはもうない。

【梅田恵子】(ニッカンスポーツ・コム/記者コラム「梅ちゃんねる」)