富士山登頂に初成功し、浅間大社で創作275作目「富士山初登頂」の一部を奉納した桂文枝が、74歳の誕生日を迎えた16日、大阪・天満天神繁昌亭で、50周年記念公演を行い、下山後初仕事を行った。

 繁昌亭は文枝が会長を務める上方落語協会にとって、悲願だった戦後初の定席。

 下山後初の高座には、その本拠地を選び、来春に4代目春団治を襲名する桂春之輔(68)、自らの弟弟子で来春開館を目指す神戸定席担当の桂きん枝(66)の“副会長コンビ”を従えて、口上も行った。

 公演のトリで高座に上がった文枝は、満席の客席に向かい「今年は50周年で、日本一の高座やるなら富士山やな~とか、言うてたら、引っ込みがつかんようになった」と、富士登頂への挑戦を説明。

 04年にも挑戦し、8合目を過ぎて高山病でリタイアしていることから「それ、忘れて言うてもたから、低酸素トレーニング3回やって、準備して登った」と語った。

 それでも、当日は、車から降りた5合目で、高地に体を順応させるはずが、豪雨により車内待機。体を慣らすことはできないまま、雨がまだ残る中、午前4時25分に出発したと報告。

 「8合目までは頭痛もなく、いけるかな? と思ってたら、山岳スタッフが来て、血中酸素濃度が下がりすぎてる、と。『このまま進んだら気を失います。山開き後最初の遭難者になりますよ』と脅された」と話すと、客席から「ほ~っ」との声が漏れた。

 その後は、酸素吸入や深呼吸を繰り返し、頂上にたどり着いたと報告。「元気な人なら5時間で登れるので、8時間あれば大丈夫のはずが、10時間半かかりました!」と言い、笑わせてから、演目に入り、「-初登庁」の完全版を演じきった。

 高座を終えると、文枝は取材に応じ、登頂後は、9合目まで降りて停泊した状況を説明。疲労の蓄積と降雨状況を配慮して、下山をあきらめ、夕方には山小屋へたどり着いた。

 「カレーライスを食べて、午後8時には消灯なんで寝て、夜明けのころに下山を始めて、午前中に沼津のホテルまで戻れた」そうで、その後、食事をとってから帰阪。「大阪、戻ってその足でプールにも行きました。思ったより、元気でした」と話していた。