一連のオウム真理教が起こした事件の死刑囚の2回目の死刑執行が26日に行われた。平成の初めから日本中を騒がせた事件も、とりあえず、ピリオドを打った。

 記者としてオウム真理教と関わったのは、1990年(平2)2月18日投票の衆院選が最初だった。「真理党」が候補者をたくさん立て、彰晃マーチを奏でながら選挙運動をやっていた。石原伸晃元自民党幹事長の選挙区だった旧東京4区の取材で、真理党の選挙の様子をよく目にした。彰晃マーチにのってゾウの帽子を被って踊っていた「オウムシスターズ」も今は50代になっているだろう。その後が気になる。

 ちょうどその頃、その日は休みで家にいたのだが、デスクからの電話で「オウム真理教関連で、行方不明になっている坂本弁護士一家の長男が信濃大町に埋められているという手紙が神奈川県警に送りつけられた。今から信濃大町に向かってくれ」と言われ、すぐ埼玉の実家から出発した。

 ケータイ電話などない時代。会社を中継地点にしながら、カメラマンと途中で合流して夕方すぎに信濃大町に到着した。会社に電話すると「なんか、いたずらみたいだった」とのことだった。信濃大町には間抜けヅラした取材陣が大勢そろっていた。しょうがないから、カメラマンと飯を食って夜中まで飲み続けた。

 翌日、酒臭い息を吐きながら、手紙に示された地点に向かうと、地元の人が雪かきをしていた。それを間抜けヅラで眺める記者の写真が掲載されたのは1年後。「あの現場は今」という社会面の写真企画だった。

 そして、95年に自首した岡崎一明死刑囚の証言で、やはりその信濃大町に坂本弁護士の長男が埋められていたことが発覚した。その岡崎死刑囚も26日に死刑執行された。

 95年3月20日の地下鉄サリン事件。当日はテレビをつけると、築地の本社の近くにも被害者が倒れていた。当日は盲腸で入院していた梅宮アンナが、赤坂の前田外科から午前中に退院予定とあって、急きょ駆けつけた顔見知りの芸能リポーターが惨状を伝えていた。

 その日はテレビ朝日の社長会見が、赤坂一丁目の全日空ホテルで予定されていた。当然、中止かと思ったが、記者クラブのサブ幹事だったこともあり「どんな手段でもいいから来てくれ」とのこと。埼玉の草加から東武線で浅草、銀座線で虎ノ門ま出て歩いてたどり着いた。

 社長会見を終えて帰ろうとすると、ホリプロ関係者に止められた。その日は、社長会見後に長野朝日放送を辞めて、フリーアナとしてテレビ朝日系「トゥナイト」の司会を担当する斎藤陽子の会見が予定されていた。「他社は帰っても、あんたは取材しなきゃ」と説得されて、数人で囲みながら話を聞いた。その日の朝、長野から信越本線で上京した斎藤は「上野の駅に着いたら、東京が大変なことになっていた」と驚きの表情で語っていた。

 それからは、芸能班、社会班総力戦で、南青山にあったオウム真理教の総本部への張り込みが続いた。その頃には、ケータイは普及していたのだが、ちょうど今はなくなったPHSが出てきた頃だった。最新のPHSを持った取材陣も多かったのだが、南青山総本部の前は、まだ通信用アンテナ設置が行き届かず、連絡に窮していた。記者自身は平日の昼間はテレビ各局で取材したり、油を売ったり、お茶を飲んで、夕方の締め切りになると、東京・渋谷のNHKにある放送記者クラブで原稿書き。そこから“抑えのエース”として総本部の張り込みに行き、終わると飲みに行くというルーティンだった。

 たまに雨が降り出して混乱することがあり、後輩記者が東京都の「ゴミ袋」と大書された袋を着ているところが、一般紙の夕刊紙に「張り込む報道陣」として掲載された。その記事が拡大コピーされて、「取材中はゴミ袋を着ないこと」と社に張り出されたのも懐かしい(笑い)。

 そして同年5月6日、早朝に芸能関係者からの電話でたたき起こされた。当時、オウム真理教の外報部長を務めていた上祐史浩氏(55=現ひかりの輪代表)にインタビューさせてやるというのだ。午前8時、ワイドショーで生中継される中、オウム真理教南青山総本部へ。当時、記者が愛用していたのはヴィトンのモノグラムのアタッシェケース。芸能界では、ままあることだったのだが、事件記者とは違うド派手な格好に、上祐氏から開口一番に「普段は、どういう取材をしているんですか」と聞かれて、「この間は○○○○をインタビューしました」と某トレンディー女優の名前を挙げると、傍らにいた広報部の信者が「○○ちゃんですか、在家の時はファンでした」と声を弾ませたのが懐かしい。

 当時、上祐氏は教団の犯罪について「知らなかった」と言い、次々と明らかになる事実にとまどう様子を見せていた。すごく違和感を感じたのを覚えている。その後、一部の犯罪について「居合わせてしまった」などの証言を聞く度に深く思うところがあった。

 その後は、大川興業の連載を担当していたので、江頭2:50に空中浮遊のまねをさせたり、オウムが経営していた弁当店「うまかろうやすかろう」に行ったり、サリン事件で逃げている容疑者が働いていたという新宿2丁目のウリセンバーに潜入したりと、ストレートじゃない取材が続いた。

 平成の初めに起こった事件の死刑囚が、平成の終わりに死刑執行される。その事実の前に、亡くなった方々のご冥福を深く祈るばかりだ。