「また逢う日まで」「魅せられて」など名曲を数多く生んだ作曲家筒美京平(つつみ・きょうへい)さん(本名渡辺栄吉=わたなべ・えいきち)が7日午後3時ごろ、誤嚥(ごえん)性肺炎のため都内の自宅で死去した。80歳。総作曲数3000弱。作曲シングル総売り上げは歴代1位の7560・2万枚(オリコン調べ)に達し、昭和歌謡曲黄金期を支えた名コンポーザーが逝った。

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筒美さんと公私にわたる40年来のつき合いで「エスカレーション」「夏のクラクション」など約100曲の楽曲を一緒に手掛けた作詞家の売野雅勇氏(69)は12日、東京・渋谷で行われたシンガー・ソングライター中西圭三(55)とのトークショーの前に、ありし日の筒美さんをしのんだ。

筒美さんとの最初の仕事は、83年の野口五郎の「過ぎ去れば夢は優しい」だった。「同じ年の次が河合奈保子さんの『エスカレーション』で、京平先生の推薦で稲垣潤一の『夏のクラクション』を書いたんです」と振り返った。

仕事だけなく、プライベートでも行動を共にして、大きな影響を受けた。「ビッグネームで、僕にとって本当に“先生”で、なんでもかんでも教えてくれた人です。自分が大きくなれたのも、先生のおかげです。いろいろ教えてくださって、音楽や詞のことだけじゃなく、おしゃれ、食事、そしていろいろな所に連れて行ってくれました」。

筒美さんの教えについて「作詞家というのは詞の勉強をするよりも、映画を見たり、本を読む事が勉強になると。おいしい料理を研究すれば、それが血となり肉となり、実際に詞を書く時に筆先から言葉になって出てくるんだよっていうものでした」と話した。

一緒に海外旅行もした。「アフリカのケニア、ニュージーランド、オーストラリアと3回行きました。僕が30歳をすぎたころで、先生が40歳をすぎたころ。ビッグネームだったけど、分け隔てなく本当に友達みたいにして付き合ってくれました。ピュアなんだ。本当にピュアな人で、音楽の事しか頭にない。本当に子供みたいで、少年のような人でした。今日はショックで、悲しくて悲しくてたまらないという感じです」と声を詰まらせた。