今月16日に芸能マネジメント部門を終了し事実上解散する石原プロモーションの58年の歴史をまとめた「石原裕次郎 渡哲也 石原プロ社史」(青志社、税抜3800円)が14日に刊行される。同プロの歴史と、故石原裕次郎さん(享年52)、故渡哲也さん(享年78)を振り返る集大成。裕次郎さん夫人で同プロ会長のまき子さんが監修を務め、謝辞を寄せた。

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社史は424ページに及び、約900点の写真が収録された。8年前にまとめられた「50年史」(非売品)をベースに、その後の8年間を加え再編集され、一般販売される。

石原プロモーションの歴史は、エンターテインメントの視点から見る時代そのもの。監督や俳優との専属契約に関して大手映画会社が結んでいた「五社協定」の枠を超えた映画製作を熱望した裕次郎さんは、63年に石原プロモーションを立ち上げた。

協定の縛りや過酷な環境など、数々の困難を乗り越えて作った「黒部の太陽」(68年)の大ヒット、経営苦境、「大都会」「西部警察」などのドラマの成功、全国のファンが見守った裕次郎さんの闘病などがつぶさにつづられている。

同プロの歴史をたどることは、裕次郎さんと、昨年亡くなった渡さんのきずなをたどることでもある。「50年史」刊行時、渡さんが寄稿した謝辞があらためて掲載された。81年に裕次郎さんが解離性大動脈瘤(りゅう)で緊急搬送され生存率3パーセントと聞いた時のことを、渡さんは「殉死という2文字が脳裏をよぎった。裕次郎さんがこの世からいなくなってしまうなら、生きていてもしょうがない」と振り返っている。

裕次郎さんは87年に惜しまれつつ亡くなった。その後の渡さんの2代目社長就任、09年に国立競技場で行われ11万人以上が参列した二十三回忌法要、被災地での炊き出しなども詳細に記録された。

裕次郎さん夫人で同プロ会長のまき子さんは約2500字の謝辞を寄せ「裕さんのこの世での寿命は尽きようとも、私の中に生き続けています」とつづった。ほか舘ひろし、神田正輝らの謝辞、裕次郎さんと渡さんが出演した全映画のポスターも収録している。

 

○…舘は謝辞で「家族以上の家族。それが石原プロのすごいところでした」、神田は「いい人たちに出会え、いい人たちの下にいて幸せでした。神田正輝は石原プロで始まり、石原プロで終わります」と記した。ほかに00年の「21世紀の石原裕次郎を探せ!」オーディションで同プロ入りした徳重聡、金児憲史、池田努もコメントを寄せた。