2021年大みそか。岡山県浅口郡里庄(さとしょう)町の自宅で、NHK紅白歌合戦を見ていた私の弟(47)は慌てて家を飛び出した。暗闇の中、小高い丘の上から100メートル先にある喫茶店に目を凝らす。すると、残念そうに引き揚げてくる人がちらほら確認できたという。弟の背後から義妹の声が。「風(かぜ)くん、東京におった(いた)よ~」。風くんとは、紅白に初出場したシンガー・ソングライター藤井風(かぜ=24)のこと。喫茶店は彼の実家だった。ちなみに、弟が飛び出したのは、日刊スポーツ記者の私(54)の実家だった。

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昨年暮れも押し詰まってから、藤井風の紅白出場が発表された。まだ、広く世の中では聞き慣れない名前らしく、日刊スポーツの芸能面はベタ記事扱い。何しろ過去出演したテレビ番組はテレビ朝日「報道ステーション」とNHKのドキュメント番組ぐらいだから、無理もない。ただし、音楽業界では、デビューからここ2年の彼の実績は飛び抜けており「出ない方が不思議」な存在でもあった。じらした末の発表は、NHKが紅白の「目玉」「隠し玉」とした期待の表れだった。

だから、初出場なのに出演順は午後10時半ごろ。大御所・坂本冬美の次だった。簡単なプロフィル映像が流れ、いよいよ登場。キーボードをひざに乗せ、ホンダのCM曲「きらり」を歌い出した。歌っているのは里庄の実家だという。過去にも実家での演奏は番組で紹介されているから、ある程度予想できた。それにしても、くぐもった音で、テレビの生中継というよりスマホか何かで結んだネット会議の音のようで、音楽性の高い彼には気の毒だった。

弟は地元里庄からの紅白生中継に驚き、「ホンマかな」と飛び出した。するとワンコーラス歌い終えたところで、画面は紅白会場の東京国際フォーラムのステージに切り替わる。なんと、藤井風がステージ中央のグランドピアノに向かって歩いている。司会の大泉洋も川口春奈もあぜんとする演出で、最新曲「燃えよ」を歌い出した。岡山弁で「もう、ええよ(もう、いいんだよ)」とも聞こえる。圧倒的なピアノ演奏とともに、コロナ禍で、息苦しい生活を続けた人々を励まし、喚起する、2021年を締めくくるのにふさわしい曲だと思った。「風くん、東京におったよ~」と呼び止められた弟は、残念ながら聴くことはできなかったが…。

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藤井風は12年前から知る人ぞ知る存在だった。12歳のころから、実家の喫茶店に置かれたピアノや、2階の自室なのだろうかキーボードを演奏して、YouTubeに動画配信。ある時から歌うようになり、エルトン・ジョンやマイケル・ジャクソンから椎名林檎らを何百曲もカバー。太田裕美の「木綿のハンカチーフ」や「ちびまる子ちゃん」の主題歌「踊るポンポコリン」まであらゆるジャンルを配信して、世界的に注目されていった。

地元でもじょじょに「知る人ぞ」となっていく。3年半ほど前、私の母親(81)が世話役を務めた婦人ボランティア組織のイベントが企画された。会議に加え、余興が計画されたが、ある人から「藤井風くんにお願いしましょう」と強く薦められたという。まだ20歳そこそこで、何者かまったく知らなかった母はちゅうちょしたそうだが、近所の青年ということもあり、打ち合わせのため、彼がまだ住んでいた喫茶店を訪ねた。

3回ほど打ち合わせした母は、穏やかな人柄には納得。選曲も演出も彼に任せて、隣町の笠岡市で唯一の宴会場のあるホテルで本番を迎えた。ちなみに、笠岡市は千鳥の大悟の出身地。今やなかなか、ホットな地域となっている。

円卓に着席したほとんどが高齢女性の会場で、藤井風は弾き語りを始めた。母の記憶では、藤島桓夫「月の法善寺横町」を歌ってくれたそうだ。当時21歳にしては、随分と懐メロなのだが、熱心な彼のファンサイトをのぞくと、歌う場所を求めていたころ、岡山や倉敷市内の百貨店屋上や、近所の夏祭り会場(彼の実家から50メートルほどの公園)にも出演。あらゆる場所で歌っていたから、橋幸夫や八代亜紀など演歌もレパートリーに入っていた。

懐メロでおばさまたちのハートをつかんだこの日、もっとも若者向けの曲は沢田研二「勝手にしやがれ」だった。終盤、かぶっていた帽子をジュリーのように客席に投げる演出付きだった。帽子の争奪戦に勝ち抜いたおばさまが、ステージまで返しにいくと「かえさんでもええんですよ(かえさなくていいです)。うちのお母さんが、ひゃっきん(100円均一ショップ)でぎょうさんこうてきたけえ(たくさん買ってきたから)、もろうてください(もらってください)」。

やさしい心遣いに、場内はすっかり21歳の青年に夢中になっていた。ステージを終えた彼のもとに、円卓に飾られていた花を手にしたおばさまが列を作ったという。

しばらくして、母の元にあいさつにやってきた。歌う場所を提供してくれたことの礼と、「来年になったら、お金をもらわんといけんようになりました(お金をもらわないといけなくなりました)」と頭を下げたという。上京して、レコード会社に所属して、メジャーデビューするという、うれしい報告だった。

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上京して1年目は各地のステージで弾き語りを響かせ、2年目の2020年5月にアルバム「HELP EVER HURT NEVER」を発売。大ブレークを予感させたが、コロナ禍でライブ活動が休止状態に。それでも、厳重な制限下で年末の日本武道館公演を含む全国ツアーを実施。昨年夏の神奈川・日産スタジムでの弾き語りライブ無料配信を経て、年末にかけて全国アリーナツアーを成功させた。紅白出演では、実家から会場への「瞬間移動」も十分なサプライズだったが、楽曲提供した縁で、大トリのMISIAのバックにも登場。ダイナミックな歌声とピアノ演奏のコラボレーションで、国民的番組を締めくくった。植草貞夫アナ調で「紅白は藤井風のためにあるのか!!」と叫んだのは、たぶん、私だけだろうが、同じ印象を持った人も多かったと思う。

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藤井風の実家の喫茶店は、現在休業中。地元の人によるとご家族も別の場所で暮らしているそうだ。近所の人によると、彼の人気で人が集まるようになり、家を離れているという。紅白が実家から生中継しなかったのも、騒ぎにならないための配慮だろう。

喫茶店がオープンしたのは、私が中学生だったから約40年前だったと思う。もともと、人口1万人程度の里庄に喫茶店は4、5軒しかなかったのに、別々のオーナーの店が2軒並んでいた。1つは当時流行のインベーダーゲームが置いてある大衆的な店。一方の彼の実家にはゲーム機はなく、落ち着いた雰囲気でコーヒーを楽しむ店だった。大人になったような、気分になれて、野球部の練習が午前中で終わった時、何度かランチを食べに行ったのを覚えている。まさかあの小さな喫茶店から…。そんな思いもあって、彼がアマチュア時代に店から配信した動画に見入ってしまう。

里庄には全国からファンが集まるようになったという。私が故郷を離れてからできた公園には、午前と午後、藤井風の曲が別のプログラムで流れるという。それだけ聞くと、藤井風で大騒ぎといった風情だが、それがそうでもない。「風くんが、紅白に出るってホンマ(本当)?」と母が私に電話してきたのは、放送前日だった。のんびりした町では、大ニュースも高速で駆け巡るわけではないことを実感しつつ、そこから1時間半、デビュー前から吹いていた「藤井風の物語」を聞かせてもらった。

あまりに身内の話に書こうか、書くまいか迷ったが、「風くんはなあ」と語り続ける、81歳の喜びの声に押されて書くことにした。藤井風に吹かれて元気になった。そんな人が増えていく気がしている。 【久我悟】