フジテレビ系トークバラエティー「はやく起きた朝は…」(日曜午前6時30分)は、今年4月に前身から29年目の放送に突入した。プロデューサーを務めるのは、同局「オレたちひょうきん族」の“ひょうきんディレクターズ”の三宅デタガリ恵介としても知られた、三宅恵介エグゼクティブディレクター(73)。テレビレビ業界歴52年目の三宅さんに、あれこれと聞いてみた。

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1971年(昭46)にフジテレビ系列の制作会社フジポニーに入社。最初の仕事は平日昼の帯バラエティー「お昼のワイドショー」のSDだった。

「最初は今で言う『バイキング』っていうか、新しく始まった『ポップUP!』の時間。まあざっくり言えば『笑ってる場合ですよ』とか『笑っていいとも』の時間帯。正午から45分間の生放送。あのコント55号が売れ出した番組で、今のニッポン放送のところにあった東京ヴィデオ・ホールから生放送をしていました。それに週2日間と、水曜日の夜に生放送で『テレビナイトショー』っていう番組のAD。これは日本テレビの『11PM』に対抗してフジテレビが作った夜の帯番組でした。水曜日がフジポニーの制作で、それをやっていました。その2つの番組を半年、それから『スター千一夜』のADとか、いろいろな特番、びっくりショーみたいな番組に関わりました」

「お昼のワイドショー」も「テレビナイトショー」も71年の9月いっぱいで終了した。

「よかったのが、僕が担当してADで入ると、半年で番組が終わるんですよね(笑い)。そうすると、新しい番組の立ち上げから携わることができるんですよ。いろいろなディレクターや放送作家とか、番組作りのノウハウはそういうので覚えましたね。だからADが一番、財産になりましたね。だから今の連中がかわいそうだなっていうのは、ADをやっている時間が少なすぎるんですよね。すぐディレクターになっちゃうから“引き出し”が少ないんですよ。僕は、最初に特番を撮ったのは26歳ぐらいなんです。レギュラーでやろうとか決まったのは28歳かな。やっぱり5、6年はADを経験しました」

大学を卒業して22歳でテレビマンになり、バラエティーのAD修業。そして、75年4月に始まった萩本欽一(81)のバラエティー「欽ちゃんのどんとやってみよう!」のチーフADに起用された。

「26歳ぐらいから『欽ちゃんのどんとやってみよう!』のチーフADをやらせてもらいました。萩本さんと出会って、いろいろなことを教わりましたね」

元になったのはラジオのニッポン放送「欽ちゃんのドンといってみよう!」。リスナーからテーマに沿ったコントがはがきで投稿されたものを読み上げ、いい作品を選ぶ形式。ラジオがテレビの番組になった画期的なバラエティーだった。

(続く)

◆三宅恵介(みやけ・けいすけ) 1949年(昭24)2月5日、東京都生まれ。慶大経済学部卒業後、71年にフジポニー入社。「欽ちゃんのドンとやてみよう!」「笑っていいとも!」「ライオンのいただきます」「タモリ・たけし・さんまBIG3世紀のゴルフ」「あっぱれさんま大先生」「ライオンのごきげんよう」などのディレクターを務める。80年フジテレビに転籍。81~89年の「オレたちひょうきん族」では「ひょうきんディレクターズ」の「三宅デタガリ恵介」としても活躍。90年からクリスマス深夜放送の「明石家サンタの史上最大のクリスマスプレゼントショー」では、今も演出を務める。04年4月スタートの「はやく起きた朝は…」(日曜午前6時30分)では番組開始からプロデューサー。09年の定年退職後もフジテレビに嘱託のエグゼグティブディレクターとして在籍。千代田企画社長。