7日、肺がんのため73歳で亡くなった筑紫哲也さんは新聞記者からテレビキャスターに転身した先駆けのジャーナリストだった。朝日新聞の先輩記者で、公私に40年を超える親交のある中島清成氏(76=元日刊スポーツ新聞社)が、最後まで新聞記者だったという“戦友”を悼んだ。

 筑紫君を最後に見舞ったのは、まだ、ひと月にも満たない前のことだった。

 別れ際に見せた悲しげな顔が忘れられない。思えば、その交友、40年を超す。出会いは、お互い、朝日新聞の駆け出し政治記者としてであった。

 以来、歳月を経て、いまも鮮明なのは、筑紫哲也がテレビのキャスターとして初めて登場するその経緯の中での思い出である。

 私はたまたま、さる広告代理店の社長の依頼で、テレビ朝日の番組制作に協力することになった。朝日新聞が全面的に支援し、ふんだんに朝日の記者が登場する報道番組であった。それは、テレビと新聞の共生を目指す実験でもあった。

 私は筑紫君に頼んで裏方を手伝ってもらうことにした。

 半年後、レギュラー陣を一新し、若返りを図ることになった。この時、嫌がる筑紫君を無理やり強引に説得し、表舞台に引きずり出した。キャスター筑紫哲也の誕生である。

 番組の名前は「こちらデスク」。私が命名した。常に、目線を低く落とした彼の語り口は、回を重ねるにつけ、茶の間の共感を集め始めた。

 ついに、この番組は、テレビ界で最も権威があるとされるギャラクシー賞を受賞し、筑紫君もまた、キャスターとしての揺るぎない地歩を固める。

 その番組が幕を閉じて5年ぐらいしてのことだったろうか。私は、筑紫君から「朝日を辞めたい」という相談を受けた。間もなく、朝日新聞を辞し、TBSの筑紫哲也となった。

 以来、彼が20年前後の長い間、不動のキャスターを続けられたのは、実は、彼が終始新聞記者であり続けたからだと、私は思う。

 当初、彼は必ずしも語り上手ではなかった。話も、決してさっそうというほどのものではない。しかし、向こう受けのするさっそうとした切り口に、真実があるとは限らない。

 筑紫君は、新聞記者として、生涯真実を追い、ジャーナリズムを問い続けた。

 そして彼は、テレビの世界にジャーナリズムを植え付けるという、先駆的役割を全うした。今年、彼はその功績が認められ、日本記者クラブ賞を受賞した。

 テレビでの、彼の至高の発言は、TBSの社員が旧オウムに情報を流し、不幸な悲劇が起こった時、「TBSは死んだ」と自らの番組で言い放ったことである。新聞記者だからこそ、言えたのだ、と私は思う。

 昨年の春、その筑紫君から「中さん(筆者)に引きずり込まれた魔界住まいも結構長くなりました」という便りがあった。皮肉なことに、彼が肺がんの宣告を受けたのは、それから間もなくしてのことだった。

 君の言。「論も愉(たの)し」。

 キャスター筑紫哲也は、最後まで、言論の魂、新聞記者としての志を胸に刻んで、この世を去った。(元日刊スポーツ新聞社編集担当取締役)