シャンソン歌手でエッセイストとしても活躍した石井好子さんが、17日午前5時28分に肝不全のため都内の病院で死去していたことが21日、分かった。87歳だった。6月中旬に体調を崩して入院。入院中は比較的元気で、自身が主催するシャンソンの祭典「パリ祭」の出演にも意気込みをみせていたが、容体が急変した。本人の遺志により、葬儀は近親者のみで済ませた。8月26日に東京・千代田区の帝国ホテルでお別れの会が行われる。

 所属事務所などによると、石井さんは6月中旬にだるさと微熱を訴え、東京都港区の病院に入院した。入院中は関係者と話をしたり、食事も普通にとるなど、元気にしていたという。亡くなる前日も秘書や付き人と雑談を交わし、病院内を散歩もしていた。17日、息を引き取る直前にも看護師と会話をしていたという。

 7月3日には、自身がプロデュースし、今年で48回目を迎えるシャンソンの祭典「パリ祭」(NHKホール)への出演にも意欲をみせていた。昨年、背骨の痛みを訴えながらもハイヒールでステージに立ち、今年も衣装を用意していた。周囲にも「50回までいくかしらね」と話すなど楽しみにしていたが、前日に発熱があり、出演を断念した。「パリ祭」は現在全国公演中。22日と23日に新潟県民会館で行われる同祭は、石井さんの追悼公演として開催される。

 石井さんは自民党衆院議員で衆院議長を務めた故石井光次郎氏の次女。東京音楽学校(現東京芸大)卒後、父の反対を振り切り、ジャズ歌手の道を選んだ。留学先の米国から、1週間のつもりで行ったパリに居つき、シャンソンに転向したのも「日本人として、外国でどこまでできるか試したかった」からという。帰国後、「パリ祭」をプロデュースするなど、日本のシャンソン界をけん引した。

 堂々としたステージとは裏腹に繊細な気配りと周到な準備を欠かさず、「心配性で練習魔」と言われた。シャンソンについて「ドイツの歌曲のように、すてきな歌詞とすてきなメロディーがある」と語り、ロマンを追い続けた。歌手として現役であり続けることに強い執念を持っていた。後進の指導にも力を注ぎ、岸洋子、加藤登紀子らを育てた。88年には、日本人として初めてシャンソンの殿堂とされるパリのオランピア劇場の舞台に立った。91年に発足した日本シャンソン協会の初代会長も務めた。

 お別れの会は8月26日午前11時半から、東京都千代田区内幸町1の1の1、帝国ホテル「富士の間」にて行われる。喪主は実弟の石井公一郎さん。

 [2010年7月22日9時23分

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