5日に57歳の若さで亡くなった歌舞伎俳優中村勘三郎さん(本名・波野哲明=なみの・のりあき)の本葬が27日、東京・築地本願寺で行われ、歌舞伎俳優の葬儀としては異例の1万2000人が集まり、最後の別れをした。都内の自宅を出発した遺骨は、喪主の長男中村勘九郎(31)に抱かれて、ゆかり深い場所をまわった。勘九郎は涙ぐみながら、「父が愛した厳しい歌舞伎の道を、しっかり前を向いて歩いていくしかない」と中村屋スピリッツの継承を誓った。

 長い焼香の列だった。午前8時すぎから並び始めたファンの列は築地本願寺境内に入りきらず、周辺を取り巻き、約2キロも続いた。片岡仁左衛門は言った。「午前11時の時点ですでに2000人が並んでいるそうです。のりちゃん、すごいよ。僕は負けました」と感嘆したが、その後も列は途絶えることなく、1万人を超えた。関係者だけで2000人と多かったが、ファンと合わせて1万2000人。歌舞伎俳優の葬儀として、歌舞伎の長い歴史の中でも異例な規模となった。

 「勘三郎追悼デー」だった。午前9時すぎ、東京・文京区の自宅を、遺骨を抱いた勘九郎が出発する時、取材ヘリが上空を舞った。平成中村座の最初の公演を行った浅草・隅田公園ではみこしをかついだ浅草っ子が「セイヤ!

 セイヤ!」と練り歩き、勘九郎も七之助も好江夫人も泣いた。松竹本社、新橋演舞場もまわったが、それぞれ100人の社員、従業員が整列して迎えた。

 午前10時12分ごろ、工事中の歌舞伎座に到着した。病床の勘三郎さんはその舞台に立つことだけを目指して病と闘った。勘三郎さんの魂は、工事関係者、大道具らスタッフ約150人が待つ中、念願の歌舞伎座に立った。勘九郎らは足場が組まれた状態のロビーを通り、客席後方から完成しつつある舞台を眺めた。勘九郎は言った。「昔と変わっていなかったので、父も喜んでいると思う。ただ、やっぱり完成した歌舞伎座を見せたかったし、立たせたかった」。

 正午から行われた本葬では、坂東三津五郎、大竹しのぶ、野田秀樹、片岡仁左衛門らが弔辞を読んだ。三津五郎は「本当に寂しいよ、つらいよ」と声を震わせた。大竹は「大好きです。今もこれからも。ありがとう。またね」と、涙ながらに別れを告げた。参列者も泣いた。

 一般焼香は午後2時からの予定だったが、関係者の数が予想以上となり、1時間遅れで始まった。焼香の列も途切れることなく、1時間の予定が2時間半以上かかった。京都から来た人もいた。毎年公演した長野県松本市からバス2台で100人が駆けつけた。焼香を終えた人はみんな泣いていた。時間制限で焼香できない人も出た。午後5時50分、遺骨が築地本願寺を出る時、多くのファンが待っていた。「中村屋!」「18代目!」の掛け声が飛んだ。勘三郎さんにとって最後の掛け声となった。1万2000人の参列とともに、勘三郎さんは伝説の人になった。【林尚之】<勘三郎さん葬儀メモ>

 ▼祭壇

 88年4月28日に同じ東京・築地本願寺で営まれた、父の17代目中村勘三郎さん(享年78)の本葬と同じ様式。

 ▼遺影

 05年1月29日に行われた「18代目中村勘三郎を祝う会」で写真家篠山紀信氏が撮影したもの。

 ▼会場に飾られた写真

 今年5月に平成中村座で演じた「髪結新三」と「め組の喧嘩」など生前に歌舞伎を演じた写真8枚が場内の左右の壁に張り出された。すべて篠山紀信氏が撮影。

 ▼花

 菊1万8000本(遺影が飾られている壁だけで1万3000本)、カーネーション1500本、コチョウラン150本で、色はすべて白。

 ▼家紋

 角切銀杏。

 ▼会葬御礼

 ワイン好きだった勘三郎さんが特に好んで飲んでいた白ワイン。