平成は、戦後有数の大規模地震が発生した時代でもあった。1995年(平7)1月17日午前5時46分、神戸市などで観測史上初の震度7を記録した阪神・淡路大震災が発生した。死者6434人、重傷者約1万人。神戸市在住の写真家、米田定蔵さん(86)、次男英男さん(51)は震災直後から神戸の街を撮り続けてきた。来年1月17日で発生から24年。元号がかわっても父子写真家は次世代に「記録」を伝えていく。

街へ出ると、つぶれたビルが次々に目に飛び込んできた。あの日、米田英男さんは神戸市長田区の自宅で激しい揺れに目を覚ました。倒壊しそうな自宅で父定蔵さんら家族の安否を確認すると、すぐに自宅近くの撮影スタジオからカメラを持ち出し、バイクに乗って、街中に飛び出した。

「どこにレンズを向けても、見たこともない光景が広がっていた。何が起こったのか、まったく分からなかった」

震災当日は一日中、神戸の街を駆け回り、無我夢中でシャッターを切り続けた。その日の夜、半壊した自宅に帰ると父の姿があった。父も神戸の街に出て、写真を撮っていた。「相談していっしょに街に出たわけではなかった」。2人は当時、タウン月刊誌「神戸っ子」のカメラマンだった。

2人が3日間で撮った写真は約1900枚。自宅が焼けるのをぼうぜんと見つめる家族、倒壊しそうな住宅からの救出作業、ひび割れた港湾、燃え盛る長田区など震災の惨状が焼き付けられている。父は「大地のすさまじいエネルギーを感じた」と話した。

英男さんは震災翌日、自宅近くにある高取山に登った。幼いときから親しんだ標高328メートルの小さな山だった。山頂に立つと、神戸の街から煙が立ち上っていた。がくぜんとしながらシャッターを切った。

英男さんは大学卒業後、神戸に帰り、父と同じカメラマンの道を選んだ。海も山もある神戸の街が好きだった。震災前は近代的なビルや神戸の港を撮影していた。しかし、巨大地震が一瞬にして神戸の街を破壊した。英男さんは見覚えのある倒壊寸前のビルの前に立ってシャッターを切った。地元のカメラマンだからこそ、元の姿とダブらせながら写真を撮ることができた。

「震災の写真は“いい写真”ではない。でも、未来に語り継ぐために、形に残さなければならないと思った」。震災後も、父子は神戸の復興の歩みを撮り続けた。

今年、英男さんは東日本大震災の被災地でコンサートを行う神戸市のNPO法人の活動に参加した。宮城県石巻市では震災直後の神戸の写真を展示した。あらためて記憶を風化させまいと誓ったからだ。

来年1月17日で発生から24年。あと約5カ月で平成が幕を閉じる。復興したようにも見える神戸だが、英男さんは「20年以上たっても心の傷を抱えている人は多い」。元号がかわっても、神戸の街をファインダー越しに見つめていく。【松浦隆司】