新型コロナウイルスの感染拡大により、スポーツ、エンターテインメントはストップし、何より社会生活そのものに暗い影を落としています。そんな時だからこそ、思い出したい瞬間があります。日刊スポーツでは、カメラマンが今、もう1度見てもらいたい「渾身(こんしん)の1枚」を随時掲載します。初回は、1995年(平7)に発生した阪神・淡路大震災。苦しみの中にあった笑顔、乗り越えた人々の強さが垣間見えます。

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新型コロナウイルスの猛威が続く。自宅待機や臨時休校など「ステイホーム」が呼びかけられているが、長期戦で「コロナ疲れ」し、ついつい買い物くらい、屋外くらい…とスーパーや公園が混雑してしまっている。

すべてが止まった感のある昨今だが、それでもネットや空調、衣食住は何とか“日常レベル”をキープできていると言える。95年1月に起きた阪神・淡路大震災は、コロナ禍とはあらゆる面で異なっていた。

鉄道や高速道路が崩れて東西南北の交通は寸断された。電気、水、ガスのライフラインを始め、全ての日常は一瞬で失われた。人々は焼けただれた商店街で生活の痕跡を探し、阪神間を徒歩で往復して生活物資を運び、飢えと寒さを耐えしのいだ。

当時、日刊スポーツでも震災取材班が結成され、バイクを所有していた社員を中心に「希望」をテーマに毎日、大阪と神戸を往復したが、震災から間もない状況では「希望」はほとんどみつからない。

そんな中、校庭の配給に疲れた表情で並ぶ大人たちの前を、久々に友人と再会した子どもたちが歓喜の声を上げて走りだした。当時30歳だった自分は「ああ、これが希望だ」と思いシャッターを切った。

昔話のように川で洗濯をし、大きな荷物を担いで歩く女性が、道ばたの被災犬に声をかけ、一部で再開された学校では、ドラマのように手を取って再会を喜び合っていた。この時を経験し、写真の中で笑っていた子どもたちは今、子育てのまっ最中だろう。

今回の“静かな大災害”は、あの時と同じ身近な死を伴っている。しかし、当時の苦しみを経験した人々は、危機の乗り越え方を知っていると信じている。ゴールデンウイークは来年もやってくる。あの時を思えば…。今は各自ができることに全力を尽くし、協力し合おう。楽しい日常を取り戻すために。【宮崎幸一】