東日本大震災から、まもなく10年。当時小学2年生だった子どもたちは、高校3年生になった。自身が選択する職業についての岐路にも立っている。全国最多となる死者、行方不明者3900人超の宮城県石巻市。石巻工3年の梶原裕斗さん(18)は1日、卒業式を迎えた。消防士として避難援助中に津波で亡くなった父裕之さん(享年41)の背中を追い消防官を目指してきたが、生死にかかわる仕事に就いて良いのか…とも悩んでいる。4月からは公務員の専門学校に進学。少年院などで働く法務教官なども目標の1つに加えた。

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卒業証書を手に笑顔を見せたが、将来を選択する苦悩の心境も明かした。「消防士をずっと目指していたのですが…。正直、決めかねています。消防士はやめようと思う」。心は晴れないまま、卒業を迎えた。

昨夏、消防官試験の願書を提出。だが、その頃から疑念が生まれた。コロナ患者を受け入れる医療機関で懸命に働く母征子さん(49)の姿に「母は私と姉を女手一つで育ててくれた。消防士になって、もしものことがあったら、また母を悲しませてしまう。将来の家族にも。立派な仕事ですが、生死にかかわる仕事はダメだと思ってしまった」。昨年9月の試験は「気持ちや覚悟を確かめるために」と受けた。結果は不合格。母は「やりたいことを選んで」と言うが「また心配するから」と消防士の選択をやめる理由は言えない。野球の練習中に頭部死球を受けたことがあった。駆けつけた母が「またか…と思ってしまった」と安堵(あんど)の涙を流す姿も思い出し、さらに心は揺れた。

10年前、父は消防士として避難援助中に津波で殉職した。小学校のホームルーム中に起きた強い揺れは覚えているが、父に関しては「休みの時にゴロゴロしていたことくらい。母に『疲れているから起こしちゃダメ』と言われたことも覚えています」とはっきりしない。最も鮮明な記憶は自宅に飾られているトロンボーン担当だった消防音楽隊の制服と、写真の中の太い腕で抱きかかえてくれる強そうな姿だ。

今冬、ユーチューブで少年院や鑑別所の教育、指導する法務教官の仕事を目にした。「震災後は人の関わりが多くあったのに、今は少なくなっている。私も多くの人に支えられて今がある。少年院に入る人も、良い出会いがなかっただけ。きっかけをつくってあげられる人間になりたいと思った」。震災時に担任から「元気なあいさつや日常の作法を学んだ」。中学野球部のコーチからは「高校最後の代替大会前にバットを振る角度を助言してもらい、9回2死からライトオーバーのヒットを打てた」と笑った。

式典後には母と並んで記念撮影。「母に見届けてほしかったのでうれしいし、ありがとうと言いたい。成人年齢が18歳になるので、今日からは大人の自覚を持ちたい」。自宅に急ぎ、父の写真の横に卒業証書を並べた。【鎌田直秀】

○…梶原さんのチームメート和田恵佑さん(3年)は憧れの存在でもある12年センバツで選手宣誓し、4月から正式に教員となるOB阿部翔人さん(現石巻高非常勤講師)の背中を追う。同じ鹿妻子鹿クラブで野球を始め、右投げ左打ち、捕手、主将も同様。「震災後、身近な翔人さんの言葉や姿に希望や勇気をもらった。自分もコロナでつらいことも味わって精神的にも強くなれたし、自主性も身についたと思う」。昨秋の大会中、阿部さんと初めて野球について語ったことも貴重な経験だ。「思った以上に野球に熱心な方。自分も教師になって翔人さんと対戦したい」。日大工学部に進学し、野球を続ける。