都市や国家は、なぜ五輪を開催するのか。来月4日開幕の中国・北京冬季五輪を前に、ジャーナリストで拓殖大学海外事情研究所教授の富坂聡さん(57)の案内で「中国と五輪」について考える。【取材・構成=秋山惣一郎】

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2015年(平27)、国際オリンピック委員会(IOC)は、22年冬季大会を中国の首都・北京で開催すると決めた。近代五輪史上初めて、同一都市での夏冬両大会の開催となった。立候補を表明したのは、その2年前。この年、新たな国家主席に就任したのが、習近平氏だった。

富坂さん 習主席は、08年夏季大会で責任者を務めました。この大会は「暗黒の中国近代史に最後の句読点を打った」(富坂メモ※1)と言われ、大国・中国の復活を世界に強く見せつけた大会です。習主席には、その成功体験もあったはずです。22年は、1921年7月に結党した中国共産党100周年で、史上初の夏冬両大会開催で飾りたいという思いもあったでしょう。中国は変にこだわるところがあって、「史上初」という「名誉」が欲しかったのではないか、とも考えています。

大会は、氷上競技は北京だが、雪上競技は北京から北西に約150キロ離れた河北省・張家口市で行われる。

富坂さん 北京はめったに雪が降りません。河北省は、人口は8000万人近いが、とても貧しい地域です。五輪開催で投資を呼び込み、開発を進めてウインタースポーツの拠点、リゾート基地、大規模農業、自然エネルギーなどの新しい産業を興す。その上で北京、天津の首都圏と一体化し、広州、深センを中心とする華南、上海、南京の華東と並ぶ大経済圏を作ろうという狙いが見えます。ちなみに河北省は、習主席が政治キャリアをスタートさせた地です(※2)。

中国は、今や米国と並ぶスポーツ大国となったが、五輪との関係は良くなかった。IOCが台湾の五輪委員会を認めていることに反発し、58年に脱退。79年に再加盟し、80年のレークプラシッド冬季大会(米国)で復帰した。夏季は西側諸国とともにモスクワ大会(ソ連)をボイコットして、84年のロサンゼルス大会(米国)から参加している。

富坂さん 76年、中国全土を巻き込んだ政治闘争「文化大革命」が終結。改革・開放路線を歩み始めたばかりの中国は90年、アジア版五輪と称されるアジア競技大会を北京で開催します。国際的なスポーツ大会開催の実績を挙げ、00年夏季大会を目指しました(※3)。五輪というブランドで国際社会に認められ、確固たる地位を得たいという意図があったでしょう。

だが、北京は93年のIOC総会で、シドニー(オーストラリア)に2票差で敗れる(※4)。89年、民主化を求める学生らを弾圧した天安門事件への批判も影響したとされる。次大会には立候補せず、中国初の五輪開催が決まったのは01年。大阪、パリなど4都市を破っての決定だった。

富坂さん 北京大会開催が決まった01年は、中国が自由貿易を促進する世界貿易機関(WTO)に加盟した年です。これを機に経済は急成長し、08年大会の大成功につなげます。00年の段階では新興国の1つといった位置づけにすぎなかったので、シドニーに敗れたことは、結果的に良かったのかもしれません。

08年の夏季大会から、わずか14年で米国と並ぶ世界のスーパーパワーとなった中国(※5)。22年冬季大会でどんな姿を見せるのか。

富坂さん 中国は「緑色(グリーン)」「安全」、「以民為本(人民本位)」の八文字理念を掲げ、お金をかけず、自然環境に配慮した大会を目指しています。大気汚染が問題となった08年とは違う点です。日本では、中国を悪役視する風潮が強いですが、競技以外で今の中国を見る機会にしてほしいと思います。

 

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富坂メモ

※1 暗黒と言われる近代史の起点は、1840年(天保11)のアヘン戦争です。清国は英国に敗れ、香港割譲などを盛り込んだ不平等条約(南京条約)を結ばされます。以後、清の滅亡、日中戦争、国共内戦、文化大革命などなど、中国は苦難の歴史をたどります。その近代史に「最後の句読点」を打ち、大いに国威を発揚したのが08年北京大会だったというわけです。

※2 政府の要職にあった習氏の父親は、50年代に失脚。習氏も苦難の前半生を送った。父親は文革後に名誉回復し、習氏も中央で活躍する場を得られたのに、自ら河北省へ赴任した。同じように父は失脚、自らは投獄という憂き目を見たライバル、薄熙来が北京で華々しく再起したのと対照的です。貧しい地域から政治キャリアをスタートさせた方が、後々有利だと計算していたのでしょう。そして最後にライバルをドンと抜き去って、国家主席に就いた。とてつもない戦略家、習氏の第1歩が刻まれているのが河北省なのです。

※3 北京アジア大会が開かれた90年ごろは、中国がまだ経済優先で突っ走る前でした。89年の天安門事件を受けて、文革終結で緩んだ政治的な引き締めムードが再び強まっていた。当時、中国人に頼み事をして、お礼にお金を渡そうとすると「バカにしてるのか」と怒られるほど儒教的道徳観が強く、息苦しいほどでした。しかし92年、最高実力者の■小平が「南巡講話」で改革・開放の加速を呼びかけた。これで一気に経済一辺倒で突っ走るようになった。今やすべてが「金金金」。お金を渡さないと何もやってくれないほどです。

※■は登るの右に郊のツクリ

※4 北京とシドニーの差は2票。つまり1票動けば事態は変わっていた。「裏切り者」は台湾か北朝鮮のいずれかだったと言われています。怒る中国に対し両者は互いに「自分たちは裏切ってない」としきりに弁明していました。その慌てぶりが非常におもしろかったです。

※5 当時、広東省の書記だった汪洋(現副首相)は、北京大会前年の07年、「騰籠換鳥」と言い出した。鳥かごはかえず、中の鳥はかえるという意味です。世界の工場として発展してきたが、これからは高付加価値製品を作り、消費が主導する先進国型の経済に変えていくという宣言でした。先を見据えて産業、経済構造の転換を図ろうとしていたわけです。これに伴い、賃上げを巡る労使紛争が各地で頻発し、飛び降り自殺者が多発します。なかには企業側が賃上げにうるさい労働者をビルから投げ落として殺された者もいた、と言われています。何事も極端な中国では、社会が変わる時、必ずこうした問題が起きるのです。

◆富坂聡(とみさか・さとし)1964年(昭39)、愛知県生まれ。北京大学留学など80年代半ばの中国に滞在。週刊文春記者などを経て、フリージャーナリストとして中国のインサイドリポートをさまざまな媒体で発表している。14年から拓殖大学海外事情研究所教授を務める。「『反中』亡国論」(ビジネス社)など著書多数。