播但線は姫路~寺前と寺前~和田山で大きく表情を変える。前者が電化区間で後者が非電化区間。電化区間の方が少し短いが駅の数は非電化区間はグンと少なくなる。それでも有名すぎる竹田城跡への最寄りである竹田駅など見どころと歴史の沿線でもある。さらには後日、歴史の発掘も行ったが、こちらは思ったよりも大変なものだった。(訪問は7月23日。以前撮影した写真も含まれています)
山中にたたずむ長谷駅の滞在は約50分(写真1)。目指すのは和田山方面だが、寺前駅行きに乗り込む。どうしてこんなことをするのかというと、次の和田山行きは長谷を通過するからだ。播但線の非電化区間には快速列車が存在する。ただ、その快速は長谷以外の駅にはすべて停車する。要は長谷を通過するためだけの「快速」である。普通列車が通過する駅(※)は全国にいくつもあるが、長谷もそのひとつだった。しかし勘違い乗車が多かったのか、その後に快速を設定して現在の形になった。
1駅目の寺前に到着した列車は方向幕を快速と表記を変えて和田山へ出発(写真2)。当然、それに乗り込む。青春18きっぷだからこその乗り方だ。ちなみに長谷で次の和田山行きを待つと2時間以上かかることになる。もっとも1駅といっても6キロ以上。姫路から寺前までは細かく駅が設置されているのに対し、寺前から和田山までは駅間距離が長いのも播但線の特徴のひとつである。
播但線沿線の観光といえば、天空の城、竹田城跡。最寄り駅は竹田。重厚な駅舎は明治期のものが今も現役で、城郭観光にはぴったり(写真3~5)。実は竹田に多くの観光客が押し寄せるようになったのは、ここ十数年のことだ。特急「はまかぜ」も観光シーズンの臨時停車を経て、今は一部が通年停車する「出世」ぶり。木造瓦屋根の駅舎がブームが来るまで、ひっそり残っていたことは感慨深いものがある。
生野、新井は過去に訪れたことがあるので今回は立ち寄らず。生野は文字通り、生野銀山の最寄り。新井は「にい」と読む難読駅で、こちらも明治からの木造駅舎が現役だ(写真6、7)。
竹田から1駅戻って青倉で下車。1度も訪れたことのない播但線の駅で今回、楽しみにしていた。青倉は1面のみの棒状駅でコンクリートの簡易駅舎があるのみだが、ポツンと離れた古いポストが印象的だ(写真8)。事実は分からないが、以前はこのあたりまで駅舎があったのかなぁ、と想像させてくれる、こんな雰囲気も私は好きである。
山陰本線との接続駅でもある和田山は播但線の終着駅(写真9、10)。今も残る国鉄時代からのレンガ車庫と蒸気機関車用の給水塔を眺めながら、今回の旅は終了したが、播但線の旅にはエピローグがある。
<播但線完乗だ!徒歩で炎天下の廃線跡巡り>
1週間後の朝、再び姫路駅を訪れていた。播但線は生野銀山の資源と姫路港を結ぶために敷設されたため、かつては港まで線路が延びていたのだ。しかし全国の臨港線と同様、輸送の主役はトラックへと移行。JR転換前の昭和末期に姫路~飾磨港の約6キロは廃線となった。こちらも回ってこそ播但線完乗だろうということで、トコトコ歩き始める。途中にあったのは亀山と飾磨の2駅。かつての線路跡は遊歩道になっていて亀山駅の場所には駅名標のレプリカがある(写真11)。遊歩道はその後も続き、山陽電鉄の網干線とクロスする山陽電鉄が上を行くのは先に播但線があったからだろう。網干線も戦前には全通したが、播但線は明治生まれだ(写真12、13)。
しかし左手にイオンが見えてきたあたりから遊歩道の先行きが怪しくなる。飾磨駅があったと思われる場所はすっかり住宅地になっていて全く分からない(写真14)。さすがにあきらめ、飾磨港を目指す。時間とともに猛烈な太陽が照りつけてきた。5、6キロ程度は気候さえ良ければ1時間半もあれば十分に歩ける距離だが、さすがにしんどい。日曜日だったので途中から人通りが途絶え、イオンを過ぎてから飾磨港駅跡まで出会った人は1人で猫が2匹。猫も暑いのか日陰から動くこともなく、目が合った変なオッサンに「シャー」をくれて終わりである。気づけば港はすぐそこだった(写真15)。
その終点は今、姫路みなとドームという多目的施設になっている(写真16)。わずかに残る飾磨港駅の痕跡は扇状になっている駐車場ぐらいだろうか。帰りはバスに乗る。小豆島行きの船も出る港へは姫路駅から昼間も30分に1本と、かなりの頻度でバスが出ている。イオンあたりからは並行する山陽電鉄の飾磨駅、亀山駅のすぐ近くを通るので、飾磨で乗り換えれば、おそらく神戸へは早く着く。だがグッタリの私の身体は終点の姫路駅まで動かなかった。いいトシなんだし、炎天下の廃線跡巡りはやめろということなんだろうなぁ。【高木茂久】
(※)「各駅停車」と「普通」は異なる。前者は文字通り、すべての駅に停車するが、後者は駅を通過することもある。